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□波間に聴こゆ
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 波打ち際をしずかに歩く。ここへ来るのは久し振りだ。昼間は海水浴場として賑わうこの海も、こんな夜中となれば誰もいない。ざあああん、と寄せては返す波。空との境は真っ暗闇に溶け込んで、どこまで行っても"無"しかないのではないかと錯覚してしまう。
 俺は波が引いたばかりの砂の上を、黒いスニーカーでゆっくりと歩いた。時折波に足元を掬われそうになって、慌てて飛びすさる。もうどうなったって構わない。そう思ってここに来たはずなのに、情景反射的に逃げてしまう自分が情けない。
 真幸。俺はお前がいないのに、もう二年も生きてしまったよ。いい加減、この寂しくて辛い世界は厭だ。お前に会いたい。俺がいなくちゃ弘海は本当に駄目だな、って。そう言ったのはお前じゃないか。置いていかれるくらいなら、俺が先に行けばよかった。俺が海で死んだのなら。弘海は海へ帰ったんだな、そう言って、泣いて笑ってくれただろう?
 潮風に煽られて、後ろへ向かって流される涙の感触が不快だった。風にあっと言う間に冷やされて、まるで飛沫を浴びたみたいだ。
 真幸。まさゆき。俺は、ゆくよ。お前に会いに行く。海の一部になったのなら、波と一緒に抱き留めてくれ。もう一度でいい。お前の腕に抱かれたいんだ。頼むよ。
 そろりと爪先を海に付けた。スニーカーはたちまちぐっしょりと海水を含んで、靴の中の得も言われぬ気持ちの悪い感触に脱げばよかったと後悔した。死ぬ時になってまで、こんなことを悔やむなんて。何だか俺、変だな。そう考えると思わず笑ってしまった。でももう、濡れてしまった靴を今更脱ぎ捨てるのも面倒だ。諦めてそのまま前に進む。引いてゆく波に身を委ねるのは楽だけれど、押し返されないように踏ん張るのは一苦労だった。
 腰、それから胸。もう体のほとんどは水に浸かってしまっている。一歩進む度、スニーカーから水が押し出されまた入り込む感覚が気持ち悪い。耳元で波と、それから俺自身の立てるじゃぶじゃぶという音がした。もう少し。肩。首。
 怖じ気づいたと言うよりは、戸惑ったと言う方が正しいのだろう。俺はそこで、歩みとも言えない足の動きを止めた。ここからどうすればいいのか。このまま顔を沈めたところで、足が付く深さなのだ。海底は緩やかなカーブを描いて深くなっている。それに俺はある程度は泳げる。波間に身を沈めて死が訪れるのを待ってみたって、体の生存本能に負けてしまうだろう。
 真幸。どうしたらいい。このまま進めばいいのか? もしかすると急に深くなっているところもあるかもしれない。そこまで、行けるだろうか。そんなことを妙に冷静な頭で考えながら、会いたいと強く思った。戻ってきた波に、不意に足元を攫われる。あっと思った時には、俺は水が腰の高さほどしかない場所まで押し返されていた。慌てて立っていた場所まで戻ろうとした時。耳元で、懐かしい声が聴こえた。嘘みたいだけれど、俺の耳にははっきりと。あいつの声が。

 弘海。お前はバカか。死ぬなよ。俺を悲しませたいのか?
 俺はお前と一緒に生きたかったんだよ。それが出来なかったからってお前を死なせちまうような趣味、俺は持ってねえ。見守ってやるから、生きろ。
 俺の分までなんて臭い台詞は言わねえから、せめてお前の分くらいは全うしやがれ。バカ野郎。大好きだぜ。

 涙が込み上げてきて、止まらなくなった。跳ね上がった海水が目に滲みる。こっちこそ大好きだよ。真幸。あの苦笑いのような、俺を見る時のやさしい顔が蘇る。ごめんな、頼りなくて。俺があまりに駄目な奴だから、ずっと見守ってくれてたんだな。俺の、傍で。

「……ッ、バカ! 俺もっ、お前と一緒に生きたかったよ! ずっと、ずっと傍に居てくれるって言ったじゃねえか……」

 返事はなかった。まるでこの世界にたったひとりで取り残されてしまったような、そんな気がした。急に、すべてが馬鹿らしくなる。俺は一体何をしてるんだ。さっきの声だって、俺の頭が作り出した幻聴かもしれない。もうとっくの昔、真幸が死んだ時に俺の頭はいかれてしまってるんだから。
 けれど、再び海へ入ろうか逡巡したその一瞬、心臓の辺りがぼう、とあたたかくなった気がした。思わず胸に手を当てる。水に浸かって冷えているはずの体は、そこだけがポロシャツ越しにでも判るほどあたたかかった。俺以外の誰かが触れても、解らないんじゃないか。そう思ってしまうような、不思議な熱だった。
「真幸。ここに、いたのか……?」
 恐る恐る、呟くように訊ねた声に、脈動するあたたかさが応えた。俺の頬を伝った涙が、幾つもの滴になって海に落ちてゆく。不意に波の冷たさが感じられた。
 上がろう、陸へ。帰らなくちゃいけない。強くそう思った。真幸と出会い、短い間だけれど一緒に暮らしたあの街へ。
 じゃぶじゃぶと波をかき分けて浜へ上がる。全身から滴る水が、乾いた砂に奇妙な紋様を描いた。黒に限りなく近い色になった紺のポロシャツを絞る。ふと振り返ってみれば、どれくらいここにいたのだろう、水平線がわずかに明るみつつあった。
 見ていると、太陽はゆっくりゆっくり姿を表す。永遠に暗闇が続いているように思われた海面は、光を反射してきらきらと輝いた。波がだんだんと複雑な青色になってゆく様は、とてもうつくしかった。
 太陽が完全なかたちになるまで、俺はそこに立ち尽くしていた。海も太陽も、こんなに複雑な表情を見せてくれるものであることを、俺は今まで知らなかった。朝日とそれを受けて輝く海は、どちらもすべてを受け容れる、やさしい光を帯びていた。
 行こう。今度こそ、俺は海に背を向けて歩き出した。そろそろ、ここは夏を楽しむ人々の為の場所になる。駐車場から浜へ降りる階段のところで、随分と早起きの客と擦れ違った。当然のことながら、全身ずぶ濡れで砂まみれの俺は奇異な目で見られる。それでも、気にしなかった。シートを敷いた車に乗り込みながら、笑いが込み上げる。不意に沸き起こった、なぜ俺は今生きているのだろうという疑問がいとおしかった。


 お前が、いてくれたからだよ。





・・・・・・・
真幸は溺れた女の子を助けようとして溺死した設定です。書いてるうちに真幸もちゃんと書きたいなあと思いましたが設定からして無理でした。予定外に台詞は出てきましたが、そのせいでオカルト系?みたいなストーリーに…。済まん、真幸。←
しかし二連続で死ネタで済みません。次こそほんわかしたやつを書きます。きっとです。(こら)

ではでは、こんな長い駄作に最後までお付き合い戴きありがとうございましたv
 
 

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