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□青く澄んだ世界で
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「ねぇ、水族館行かない?」
 夏生はそう言って私に手を差し出した。茶色に脱色したきれいな髪が、風に煽られてさらりと揺れる。太陽が照らす白いうなじが、少し眩しく感じられた。



 今頃、みんなは教室に押し込められて授業を受けさせられているんだろう。他の学校が夏休みに入ったこの時期も、私たちの通う火ノ宮学園は特別授業と称して普通に登校が義務づけられている。たしかに教室には冷房が完備されていてさほど苦痛ではなかったけれど、とても退屈だった。
 夏生といると、他のことなんて煩わしい、どうでも良いことのように思えてしまう。自分では考えもしないことも、夏生とならすてきなことのように思えた。
 今も、私は夏生と手を繋いで水族館の中を漂うように歩いている。夏生は、とてもきれい。
 光の加減で全体的に青く染まったこの空間では、まるで水の中を自由に泳ぐ魚のようにも、浦島太郎を捕らえてしまった乙姫のようにも思えた。時間を、忘れてしまいそうになる。
「…ねぇ、綾香。」
 ふいに夏生が足を止め、私を振り返った。ポニーテールがさらり、と揺れる。背後の水槽の青い空気が夏生にとても似合っていた。
「な、に…?」
 ふと、夏生が消えてしまうのではないかと思った。名前の通り、一夏だけを私といっしょに過ごして。
 馬鹿げているけれど、なぜかその考えはリアルな質感を持って私を襲った。そのせいで、問い返す二文字が震えていた。
「やだ、どうしたの」
 私の異変に気付いたらしい、苦笑混じりの優しい声で直ぐに不安は払拭される。
「なんでもない。夏生こそ、どうかした?」
 私は首を左右に振って不安の残像を振り払った。夏生が、いつもの耳に心地好いアルトの声で言葉を紡ぐのを待つ。
「あのね、綾香。」
 夏生は大切な秘密でも伝えるかのように、そっと声を低めた。
「…すきよ。」
 時間が止まる。私は、繋いだままの震える手に恐る恐る力を込めた。
 夏生がふわり、と優しく笑った。





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