SS


□喪失
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 結局俺は恋なんてできないよと彼は嘯く。それは、此処の問題だからと左胸を指してうっそりと笑いながら。僕はそれを、黙って見つめていた。それはできないんじゃなくて、しようとしないの間違いじゃないのか。なんて言葉は胸の内で渦巻くだけで実際に口に出せたことは一度もない。それを言えるほど、僕は尊大じゃない。
 だから。精一杯の願いを込めて、僕は強請った。
「恋ができないなら、愛して。」と。彼は拒まなかった。僕のことを抱いて、それから優しく抱き締めてくれた。彼の体温はやさしくて、ひどく切ない気分になったのを憶えている。
 手に入れたはずだったのに、苦しくて堪らなかった。むしろ、大切だったなにかを喪ってしまったみたいだった。それは彼を恋慕する気持ちだったのかもしれない。その何日か後、彼は街から姿を消した。
 いま、彼は何処で何をしているのか。誰かと恋したり、愛し合ったりしているのか。僕は知らない。二度と、それを知ることはないだろう。

 あの黒い眸が何処を見ているのかすら、僕には解らなかったのだから。




 

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