甲斐の国・躑躅ヶ崎館――
いつも変わらぬ熱いこの国に、ここ最近とある奇妙な変化と噂があった。
『甲斐双虎』との呼び名も高く、兵や民に慕われている武田信玄と真田幸村。その後者、熱き若虎の奇妙な行動についてである。

「たのもーっ!皆の者、今日も良き道場日和にござるぁっ!誰でも良い、この幸村の修行にお付き合いくだされぇぇっ!」
「ひぃ!ゆ、幸村様ぁっ、またにございまするか!?いくら我らとて、身体がっ……!」
 幸村の武田道場好き自体は、以前から何も変わらない。しかし、その頻度と激しさが問題だった。ある日を堺に、連日道場に修行を申し込む様になったのだ。
 始めは微笑ましくも喜んで相手になっていた武田兵達だったが、何しろ幸村は強い。それに加えて、この異様なまでの気合いである。
 それを連日続けていれば兵達は疲弊し、気持ちも身体ももう着いて行けなくなって来ていた。
「うぅ……幸村様、ここ最近様子がおかしいぞ……一体どうされたのだ?」
「俺にも分からん……普段から熱い御方ではあるが、こうも毎日だとなぁ……」
 しかし兵達も幸村の頼みとあっては断る事も出来ず、よろよろと立ち上がる。ここ最近の兵達の噂は『最近の幸村様はどこか様子がおかしい』だった。
「幸村様ぁ……せっかくですが、修行はまた明日に……」
「なっ……!ならぬっ!誰でも良い、お相手をっ……!」
「あっちゃ〜。こりゃ、予想以上に熱くなっちゃってるわ」
 その時後ろから声が聞こえて振り返ると、いつも通りの飄々とした佐助の姿があった。丁度黒烏から道場へ降り立ったところだ。
「佐助!丁度良い、この幸村の修行に付き合え!」
「え〜?やなこった!そんな漲ってる大将の相手なんて、俺様まっぴらごめんだね!それより、一体どうしちゃったのさ?そんなに毎日必死になって……」
 佐助は兵達の噂を聞いて、幸村の様子を見に来ただけだった。不思議そうに問い掛けられ、幸村は「うっ……」と言葉を詰まらせる。それから暫くして、どこか険しい表情で俯いてしまった。
「否っ……これは、某の問題でござるっ……自分自身との……戦いなのでござるっ……!」
「ふうん……まぁ言いたくないなら、別にいいけどね。でも無茶したり周りに迷惑かけるのは、程々にしときなよ」
「な……!待て、佐助っ!」
 忠告だけ残し影の中に消えてしまった佐助に、幸村はまた暫し俯いた。
「あの〜……幸村様……一体、どうされたのです……?」
 心配そうに幸村の顔を覗き込む兵達。幸村の瞳は、切なげに揺れ細められていた。
「皆、すまぬっ……しかし、某は一刻も早く、強くならねばならぬのだっ……!あの御方を……お館様を、お守りする為にっ……!」
「幸村様……」
 槍を握る幸村の手が、揺るぎない決意と焦燥に震えていた。

    *   *   *

「ほう……幸村の様子がおかしいと、そう申すのじゃな?」
「ええ……あれは完っ全におかしいですね。まるで、何かに焦っている様な……しかも、俺様にさえ理由言ってくれないし」
 道場での幸村の異変を見た後、佐助はすぐに信玄に報告しに来ていた。というのも、佐助一人だけは大方検討がついていたからだ。幸村の度が過ぎた修行、その理由を――
「ふむ……儂も薄々気付いておったが、少々気になる点はあるな」
 信玄は顎髭をゆっくりとなぞりながら、視線を斜め下に落として考えた。幸村が会いに来る頻度が、確実に減っているのだ。道場で修行していると聞き、特に咎めはしなかったのだが。
「ええっとー……率直に結論から言わせてもらうと、ですね。大将がおかしくなったのも、お館様が全て原因なんですから、何とかしてください」
「何……じゃと……?」
 一生懸命原因を考えていた信玄を余所に、佐助がはっきりきっぱりと断言する。思わず顔を上げると、佐助がはぁ……とお決まりの溜息を吐いた。
「まぁ、お館様は知ってる筈もないし、仕方無いんですけどね。でも俺様の勘に、間違いはないですから」
 思わせぶりな台詞を残すと、佐助は庭の方へと飛び去っていった。これでお館様が何とかしてくれるだろうし、丸く治まるだろう、と。
(何て言うか……あの御方もつくづく罪な男だよな。知らない内に乙女の恨みは買っちゃうわ、大将に関してはもう、言わずもがな……毎日あんな感じだし)
 佐助も知っているこの乙女≠アそが根本の原因だったのだが、信玄には知る由もなかったのである。
 残された信玄は着流しの腕を組むと、瞳を閉じ……ゆっくりと息をつくのだった。
(知っている筈もない≠ゥ……儂だけが知らぬ事があるというのか)
 先日この居室で共に過ごした時は、特に変わった様子も無かった様に思う。ひと度この腕に抱けば、それはそれは嬉しそうに瞳を潤ませて見上げてきたものだ。その尋常ならざる愛らしさは、普段と何も変わらなかった。
(あの愛らしさに抑えが利かず、啼かせ過ぎたか……それともやはり、媚薬や張形を用いて虐め啼かせ過ぎたのが、まずかったのか……)
 原因などいくらでも思い浮かんでしまうが、どれも道場での修行とは結び付かない。
(佐助の言葉も気になる。直接あやつに問い正してみるか)

   *   *   *

 翌日――佐助が忠告したにも関わらず、道場には幸村の威勢の良い声が響き渡っていた。
「はぁっ!大・烈・火ぁぁ!!」
「わわわ!幸村様ぁぁー!」
 連日の異様なまでの気合いに、付き合う兵士達も二槍の受身しか取れない状態だ。
「幸村様……もう、修行は少しお休みしましょう。お身体を休めるのも、大事にございます」
「いくら幸村様の頑丈なお身体とて、これではいつか壊れてしまいまするっ……」
「っ……そなたたちの言葉は、嬉しく思う。だがっ、某には、もっと強くならねばならぬ理由があるのだっ……!」
 全ては、お館様をお守りする為。休んでなどいられない。
 もっともっと、強く……!
 二槍を持つ手を握り締め、ぎゅ……と目を瞑る。
 幸村の脳裏には、忘れもしない……ある一日の出来事が甦ってきた。幸村が修行の決意を固めた、あの日の事が――

   *   *   *

 事は、一週間程前に遡る。
 その日信玄は政務で出掛けていて、幸村は躑躅ヶ崎館の留守を預かる大事な身であった。
 偶然にも信玄本人のいないその日に、事件は起きてしまったのである。
「武田ぁー!そこにいるか!井伊直虎が参ったぞ!乙女の恨み……今日こそ晴らしてやるっ!」
 館の入口から勇ましい女子の声が聞こえて、幸村が駆け付けると……そこには井伊直虎となでしこ隊の姿があったのだ。
「貴殿は、井伊殿!?何故今、甲斐にっ……!お、おとめの恨み、とはっ……」
「お前は……真田!乙女の敵、武田軍めぇっ!私は武田に用があるんだっ、そこを退けぇっ!」
 直虎の口から出た名は、幸村を動揺させるのには十分過ぎた。驚きと焦燥に、思わず目が見開かれる。
「なっ……!お、お館様にっ!?井伊殿、それは如何なるっ……!」
「はぁぁぁぁっ!!」
 聞くよりも早く、直虎の大剣が幸村に向かって勢い良く降り下ろされる。
「ぐっ……!」
 ガキィィンッ!!
 幸村は咄嗟に目の前で二槍を交差し、直虎の大剣を受け止めた。その激しさを物語る様な、大きな金属音が周囲に響き渡る。それはとても女子とは思えない力と重みで、幸村の足が後ろへ後ずさった。
乙女の恨み≠ニは、これ程までに重いものだというのか。しかもその恨みの矛先は、幸村が想いを寄せる信玄なのだ。何よりもその事実に幸村は動揺し、身動き一つ取られずにいた。
「井伊殿っ……!どうか、お聞かせ下されっ。貴殿はお館様に、一体如何なる恨みがあるとっ……」
「くっ……私の大切な人は、もういない……!武田が戦を長引かせた所為で、私の元を去っていってしまったっ……!」
「な…………!!」
 その時、幸村の胸はまるで槍に貫かれたかの様にズキリと痛んだ。動揺で、受け止める二槍の力が少し弱まってしまう。
「乙女の恨み!思い知れぇっ!!」
「ぐっ……!ぁっ!」
 とうとう二槍が強い力によって弾かれてしまう。その後も直虎の猛攻に応戦し続けた幸村だったが、いつもの調子が戻る事は無かった。
 心に掛かるモヤの様なものが消えず、遂には地に片膝を着き、直虎に大剣を突きつけられてしまったのだ。
 佐助の忍術によりその場は逃れたものの、その日以来幸村の心の憂いが晴れる事は無かった。

   *   *   *

 
(あの時……井伊殿との打ち合いを通じて、この心にその想いが入り込んで来た。怒りや憎しみ、そして悲しい気持ちが……)
 大剣を受けた二槍を、幸村は複雑な思いで見下ろしていた。
 確かに直虎のしている事は、逆恨みの八つ当たりに過ぎない。
 けれど『大切な人が側からいなくなってしまった気持ち』――それを思うと、本気で槍を向けようとは思えなかったのだ。
(もし……もし、お館様が……某の元から去っていってしまったらっ……)
 自分の事に置き換えて想像してみただけで、ズキリズキリと激しく胸が痛む。
 しかし心の内に、別の密かな安堵があったのもまた、事実だった。
(おとめ≠ェお館様に恨みなどとっ……まさかまた、お館様に好意を寄せる女子が現れたのかとっ……某は……某はぁぁっ……)
 僅かに手を震わせながら、ぎゅ、と目を瞑る。もしそうだったとしたら、幸村にとっては恋敵になってしまう。しかし直虎は、恨みの感情しか抱いていない様だ。
 信玄には、老若男女問わず惹き付けてしまう魅力がある。それ故……幸村はいつも気が気ではないのだ。
(否……!ち、違うっ……!お館様が真の意味で狙われているのに、何を安心などしているのだぁっ!)
 井伊殿は晴らせなかった恨みをお館様に向け、再び攻めてくるだろう。
 もっともっと修行して、お館様を守らねば。
 お館様をもし、失ってしまったら……そんな未来を想像しただけで、心が張り裂けそうだった。
 修行の手を休める気には、とてもならなかったのだ。
「お館様っ……お館様は、幸村がお守りいたしまするっ……必ずっ……どんな事があろうともっ……!」
 二槍を見つめ、幸村の瞳が固い決意に震える。
 ――と、その時。
「幸村。今日もここにおったのか」
 良く知るその声に、ドクリ!と心臓が大きく音を立てた。振り返ると、道場の入口からゆっくりとこちらへ歩いてくるお館様の姿。着流しのままなので、修行に来た様子ではない。
「お……おやかた、さまっ……」
 毎日、毎日――この御方の事を想いながら、修行に明け暮れていた。全ては大切なこの御方を、お守りする為に。
 そんな想い人が目の前に現れて、思わず幸村の表情は緩んでしまう。一歩一歩近付いてくる度に心臓の音は強くなり、顔は熱く火照ってくる。
 目の前まで来られ、静かに問い掛けられた。
「どうやら儂の知らぬ間に、毎日修行に明け暮れておった様じゃな」
「は……はいっ。この幸村、武田の為にもっともっと、強くならねばとっ……」
 幸村の頬は紅潮し、目線は少し斜め下に伏せたままだった。些か嘘をついている所為で、真っ直ぐに本人の目を見られない。
「修行は良いが、佐助からも兵達からも忠告があったであろう。何故聞かぬ」
「っ……!しかし、幸村はまだまだ未熟にございます故っ……今は、休む暇などっ……!」
 本人が言っても、幸村の意志は固い。信玄はその時、確信した。幸村は自分に何か隠し事をしている……と。 
(これは……予想以上に手強いのう。かくなる上は……)
 信玄は不敵に口元を上げ笑むと、幸村の両頬を掌で包み、上向けさせた。
「お主が修行に明け暮れておる所為で、逢瀬が減ったではないか。お主……儂と修行と、どちらが大事だ」
「っ、ぁ……!お、おおお館様ぁっ!?」
 意外な問いを投げ掛けられて、顔が真っ赤に染まり上がる。周りにはまだ兵達もいるというのに、お構いなしなのだから。
(この修行もみんな、お館様の為なのにっ……ど、どちらが大事かなんてっ……)
 どう答えて良いか分からず、慌てふためく。そんな幸村を見下ろして、思わず信玄の顔が愛しげに笑んだ。 そして次の瞬間、信じられぬ事が起きたのだ。
「あっ!?」
 膝に腕を差し入れられ、もう片方の腕で背を抱かれたかと思うと、身体が宙に浮くのを感じた。驚いて見上げると、目の前に信玄の横顔があったのだ。
「お……!おおおおやかた、さまぁぁっ……!!」
「皆の者、これより此奴は儂が預かる。ゆっくりと今までの修行の疲れを癒すが良い」
 信玄は周囲の兵達に向け、高らかにそう告げた。
 逞しい腕に抱えられながら、幸村は強制的に連れ去られてしまう。
「お、おおおやかたさまぁぁっ……!み、皆の者が見ておりまするぅぅ……こ、ここでこの様なぁぁ……」
 ただ、顔を熱くさせ慌てふためく事しか出来なかった。すると目の前の顔が此方を見下ろし、瞳を細められ不敵な笑みを浮かべられてしまう。
「散々忠告したと言うに、聞かぬお主が悪い。これぞ正に、自業自得というもの。こうなれば儂の元に監禁してやるしかなかろう」
「な……!か……かん……き……!?」
 珍しく危険な事を言う信玄に見蕩れながら、幸村の心臓は危うく止まりそうになってしまうのだった。




つづく

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