プロローグ


『己の風林火山を見極める為』――幸村は諸国を巡った。
そして甲斐に戻り、再び信玄と相対してから……数日が過ぎようとしていたある日。
久し振りに元気で熱気盛んな声が、道場に響き渡っていた。
「幸村様―っ!今日は某と御手合わせ願います!」
「うむ!全力で……参るっ!」
幸村が甲斐に戻ってからというもの、躑躅ヶ崎館では武田兵達がてんやわんやで喜び続き。
あの幸村が自分自身の風林火山≠見出し、立派に成長して帰って来たのだから。
信玄と幸村――『甲斐双虎』が揃うのを、武田兵達は涙を流して喜んだ。
 そして勿論、幸村の帰りを今か今かと誰よりも待ち望み、喜んでいたのは――
「……!お館様っ!」
「幸村、精進しておるな。まだ甲斐に戻ったばかりだというに」
道場での鍛錬の様子を、入口から見守っている人影。幸村が気付かない筈は無い。甲斐を離れていた時も、片時も忘れず心の中で慕い想い続けた……信玄だったのだから。
 その姿を見つけ思わず駆け寄ると、幸村は信玄を見上げる。
「お館様っ。あの日お館様が認めて下さった事……その想いに報いる為っ……幸村は精進いたしまする」
「……そうか。しかし今日は天気も良い。一時稽古はやめ、儂に付き合うてはみぬか」
「え……?」
 幸村を見下ろす信玄の顔は、愛しげに笑んでいた。



『若虎の危険な恋』



春麗らかな午後――躑躅ヶ崎館。
どうした事か今はお館様に散歩に誘われ、お隣で胸を高鳴らせている。
(落ち着け……落ち着くのだっ……久し振りにお館様とこうして、いられるというのに……っ)
 甲斐に戻り、再開を果たした後……久し振りの、二人きりのゆっくりとした時間。帰るまでずっと、夢見続けていた時間。
それなのに心臓はいつまでも煩く鳴り続き、顔の熱も一向に下がってはくれない。
 甲斐を離れ、見てきた事……感じた事。たくさんお話したい事があるというのに。
(あの時、どれだけ嬉しかったかなんて……お館様はきっと、ご存知では無いのでしょう……)
 散歩に誘って下さった時――いつも凛々しいお館様のお顔が、微笑んでくれた。
躑躅ヶ崎館に帰ってきて、ゆっくり話す暇も無かったから。
またこうしてお隣にいられるだけで、幸せだった。
 嬉しくて、嬉しくて……堪らなかった。
 お慕いするあなたの隣に……またこうしていられるだけで。
(お館様、ずっと黙っておられる……何を考えておいでなのだろうか……)
 隣で歩調を合わせて歩いてくれる、愛しい御方の顔を見上げる。久し振りの横顔は以前と変わらず、精悍で……とても凛々しかった。
「っ……」
 顔や身体中が、もっと熱く火照り出す。このまま黙っていては、きっと変に思われてしまう。
(せめて顔の熱だけでも……治まれ……っ)
 そんな事を考えていると、隣でお館様が、ふ……と小さく笑む声が聞こえた気がした。
まさか気付かれてしまっただろうか。慌てて見上げると、お館様はその凛々しい瞳を細めこちらを見つめていた。
「幸村。儂が何故お主を破門≠ニ言うたか……分かっただろう」
「……!お館様っ……」
お館様は先に進み立ち止まった。そして壁に描かれたある絵に、ゆっくりと触れたのだ。
……広間に描かれた、双虎の絵だった。
二匹の虎は互いを見つめ合い、仲睦まじい様子が見て取れる。
「お主は自分自身の風林火山を見出し、儂の元へと戻ってきてくれた。……あの時どれだけ、儂が嬉しく思うたか……分かるか」
「っ……!」
 静かな声の中に、お館様の想いが染み渡る様に入り込んでくる。絵の方を向かれていて、その表情までは分からなかったけれど。
「お主は立派に成長し……強うなった。それは技や体だけでは無い。心の部分もだ」
「おやかた、さま……っ……」
 お館様は絵の方を向いたままだったけれど、その声色はとても穏やかだった。
「儂が教える事など……もう無いのやも知れぬな」
「っ……!」
今まで我慢してきた涙が、じわり……と溢れ出す。
お館様が『破門』と言われたのは、もうそれだけ自分を認めて下さっていたのだという事。
嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
けれど――
「お館様が認めて下さり、嬉しゅうございましたっ。この幸村、お館様のお側で益々精進しとうございまするっ。まだまだ幸村は、未熟者故っ……!」
もう以前の様にお側に置いては下さらないのかと……そんな不安が、心のどこかにあったのだ。
 お館様の……お慕いするあなたのお側に、ずっとずっといたい。
 出会った時から胸に秘めたこの想いは、決して伝えられはしないけれど。 
「っ……ぅっ……もうしわけ、ございませぬっ……おやかた、さまっ……どうか……どうかこれからも、幸村をお側にっ……」
 お館様が振り返り、無言でこちらを見つめているのが分かった。お顔を見る事も出来ず、ぎゅ……と目を瞑り俯いて泣いてしまう。
早く止めなければ。こんなのお館様にご迷惑だ。そう思っているのに、涙が止まらない。
「っ……、ふ、ぁ…………!?」
次の瞬間――信じられない事が起こっていた。
ふわり、と、自分の身体が引き寄せられ、温かいもので包まれる。それがお館様の逞しい両腕だという事に気いて、思考が止まった。
「っ……ぁ……おやかた、さ……」
「ふ……何を泣いておる。最後まで儂の話を聞かぬか」
より深く引き寄せられて、着物の上から逞しい胸元に頭を寄せられる。信じられない出来事に、一気に身体中がかぁっと熱を持った。
「……落ち着くまで、こうしておれば良い。落ち着いたら……代わりに儂の願いを、聞き入れてはくれぬか」
「っ……!……は……ぃ……、っ……」
お館様の腕の中で、やっとの事で返事をした。
ドクドクドク……!
心臓の音の煩さと顔の熱さに涙が滲む。こんなに身体が密着して……まさか、お館様の腕の中に包まれているなんて。こんなの、落ち着かれる筈が無い。
(おやかたさま……おやかたさまっ……)
お館様のお身体は、とても男らしく逞しかった。一回り大きいお身体に、自分の身体がすっぽりと包まれてしまう。余りの嬉しさに、暫くこうしていたいと願った。
「幸村……儂の願いはこれからも変わらぬ。この双虎の様に、お主と共に甲斐の国を……民を守ってゆきたい」
「……っ、ぁ……」
 背を優しく抱き寄せられながら、耳元で明瞭な声が聞こえた。
信じられない歓喜に、全身が震え出す。また涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「おやかっ……おやかた、さまっ……本当にお館様のお隣にいるのが……この虎が幸村でも、良いのでしょうか……っ」
 涙を滲ませながら見上げると、目の前の瞳がふ……と和らいだ。
「お主の他に、誰がおるというのだ。儂も武田の皆も……それを望んでおると言うに」 
そう言って身体を少し離されると、両肩を優しく掴んでくれた。お館様の凛々しい瞳で真っ直ぐに見降ろされると、また顔が火照る。
「儂の側におれ……幸村。共に甲斐を……いや、日ノ本を良き国にしようぞ」
「っ……!はい……!はぃっ……おやかたさま……!」
嬉しさに細められた目尻から、涙が溢れ出す。
頭を胸元へゆっくりと寄せられて、自嘲する様なお館様の声が上から降った。
「ふ……これではまるで、祝言の誓いの様ではないか。この様な言い方しか出来ず……許せ、幸村」
「っ……!!」
 耳元で聞こえる静かな声に、かぁっと身体中が熱くなる。
お館様のそれは確かに、まるで告白の様だった。
ドクドクと激しく鳴り響く胸が、伝わってしまう。
本当に、そうならいいのに。そう願わずにはいられなかった。
 お館様は……何もご存知で無いのだ。
この心があなたに、主や師以上の感情を持っていること。
毎日朝から晩まで、あなたの事ばかりを想い、身を焦がしていること。
お館様は某を信頼してくださってはいても、この様な恋慕など抱いていよう筈も無いのに。
(それでも、いい……どうかこれからも、ずっとお側に……)
 だからこうして密かにお慕いする事だけは、許して欲しい。
今日も、伝えられぬ想いを胸に秘めながら……背をきゅ、と握った。

    *   *   *

 満月の蒼白い光が、躑躅ヶ崎館に降り注ぐ夜。
 その晩――また某にとって嬉しい事が起こった。
ゆっくり積もる話を聞きたいと、お館様が居室へ招いて下さったのだ。
月見酒に誘われ、庭先に面した縁側に並んで座る。
お館様の隣で瓶を両手で持ち、盃に丁寧に酒を注いだ。
「それで……上杉殿はこの幸村に、お言葉を下さいました。戻るべき場所へ、お戻りなさい≠ニ……」
「……そうか。戻るべき場所――か」
お館様の瞳は細められ、口元に笑みを浮かべていた。とても……穏やかな笑みだった。
(お館様……)
月の淡い光が、お館様の目鼻立ちの整った精悍な顔をより強調させている。きりりとした眉に、高く通った鼻筋。盃に口付け、ぐい、と飲み干す際の……伏せられた切れ長の瞳。
太く男らしい首筋に、夜着からは鎖骨や胸元が覗いている。
(あの、盃に……なりたい……)
酒瓶を持ちながら、いつの間にか惚けた顔でお館様を見つめてしまっていた。
「どうした。お主は飲まぬのか。もう酔うたか」
「あっ……はい……幸村は、もう……」
酒では無く、お館様に……
 そう心の中で付け足しながらも、その瞳に見つめられただけでまた顔が火照ってしまう。
 その時――お館様の視線がゆっくりと庭先に向けられ……少し鋭いものとなった。
「そこにおるのだろう。上杉の忍よ」
「……取り込み中、失礼するぞ」
そう言ってお館様の視線の先――庭先の木から降りてきたのは、何と上杉の忍こと、かすが殿だった。
「なっ!?そ、そそそなたはぁっ!?」
「お前という奴はっ……相変わらず、化け物でも出たみたいにっ……」
「お主の様な者が、甲斐に一人で何用だ。殺気が無い故、気付くのが遅れたぞ」
 そう言われると、かすが殿はお館様に歩み寄り……ずい、と何か小包を渡した。
「謙信様からだ。中は見てはいけないと言われたから……わ、私は何も見てないぞっ。いいか、見てないからなっ」
「……ほう……?」
 かすが殿は何故か頬を赤らめ、明らかに焦っていた。お館様は疑いながらも小包を受け取る。
 中には一通の書状が入っていた様だった。他に何が入っていたのかは分からない。
中を開き、読み進める内……お館様の表情がぴくり、と少しだけ強ばるのが分かった。それから困った様に目頭を指で抑えられ、小さく息をついた事も。
「お……おやかたさま……先程も申し上げた通り、上杉殿には大変お世話になったのです。書状には、何とっ……」
そんな困った様な、動揺された様なお館様を見るのは始めてかもしれない。余計に書状の内容が気になって仕方無かった。
「いや……大した事は無い。お主がその後無事に戻ったか、気にかけていた様だ。ただ……それだけだ」
「……!そ、そうで……ございますか……」
 けれどその内容とお館様の様子では、大きな違和感を感じた。
本当にそんな内容だったのだろうか……?
書状の内容が気になって仕方無いけれど、見せて下さいとは言えない。
「謙信やお主には、幸村が世話になった様じゃな。本来ならば、こちらから使いを出すべきが……礼を言うぞ」
「わ、私は別にっ……謙信様が望む事をしているだけだっ。真田幸村……お前のその後も、謙信様は気にかけていたからな」
「……!どうか上杉殿にお伝えくだされ。あの時は道を指し示して頂き、ありがとうございまする、と……」
 深々と頭を下げる。かすが殿は不貞腐れた様に、ふんっと顔を背けた。
「真田幸村……お前、私が苦手だったんだったな。あれからずっと気になっていたが……一体私のどこが苦手だとっ……」
「なっ……!そ、その話はもう……!」
「苦手……だと?ふ……成程のう」
慌てて話を戻そうとするも、既にお館様に興味を持たれてしまっていた。揄しげに笑んでいるのを見ると、すぐに理由を見通されてしまった様だ。
「あれからずっと気になっていたんだっ。良い機会だ、今ここで教えて貰おうっ」
「あ、いや……それはっ……そのっ……、ぅぅっ……」
 今ここで何て尚更言える訳がない。お館様が見ておられるのだ。
 どうしようもなく俯いてしまう。いつの間にか縋る様にお館様のお着物を指で握ってしまっていた。
「かすがよ。此奴が苦手と言うたのは、決して悪い意味では無いのだ。ましてや、お主自身が悪い訳でもない」
「…………!」
やはり……お館様に見抜かれてしまっていた。この心がまだ未熟で、特に肌の露出の多い女子が苦手な事を。
「私が悪い訳では、ない……?」
「そうだ。だから、少々失礼な事をしたやもしれぬが……この甲斐の虎に免じて、許してやってはくれぬか」
「……!お、おやかた……さまっ……」
 見上げると、お館様は何もかも分かっている様に、笑んでいた。
 お館様にこの様な事で庇っていただくなんて……嬉しいけれど、未熟な自分が恥ずかしい……
「そう、か……そこまで言うのなら……もういい。もう用は済んだし、帰らせて貰おう」
「謙信にも、礼を頼むぞ」
最後にそう言うと、かすが殿は越後の春日山の方へと消えていった。

   *   *   *

「お館様っ……!申し訳ございませぬっ……!」
居室の中に戻ると、お館様の前に正座して手を着き、真っ先に謝った。女子に対しての未熟な面を、よりにもよってお館様に見られてしまったなんて。
お館様にだけは……絶対に知られたくなかったのに。
ぎゅ……と瞳を閉じていると、暫くして意外な反応が返ってきた。
「ふっ…………ははは!」
「お……おやかた、さま……?」
見上げると、予想外に吹き出した様に笑うお館様の姿があった。お怒りになるどころか、愉しんでおられる様にも見える。
「いや……すまぬ。幸村、お主……成長して帰って来たかと思えば、その初心な面は少しも変わらぬのだと思うてな」
「お館様はっ……お怒りにならないのでしょうか……?」
「怒る……何故だ。それに今更であろう。お主が苦手なものくらい、儂は昔から把握しておる」
「っ……!」
 やはり、お館様は全部お見通しなのだ。その上で……あの様に、庇って下さったのだ。
 お怒りになるどころか、お館様は心広くお優しい。
けれど……それなら。
あなたに向けるこの想いも、お館様はまさかとっくに知っておられるのだろうか……?




つづく

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