『遊郭恋物語』

   プロローグ

 ここは江戸・吉原――言わずと知れた、幕府公認の公娼街。
 戦国時代より少し時代が進んだこの頃、遊女屋は各地に存在し、珍しくはなかった。中でも吉原は、その規模で日本一であった。
 吉原の遊郭は、男達の性のはけ口の為に作られたが、一方で「社交場」としての側面もあった。客層は商人、武士や大名、文化人と様々である。
 その中でも裕福な者だけが通う事を許される、高級店「大見世」。その中でも一番の大繁盛店――『紅楼閣』。
 これはその遊郭に勤める、ある一人の珍しい花魁の恋物語である。


  *   *   *

(今日は珍しい客人の日……きちんと仕事をこなさねば)
 毎日忙しい紅楼閣で、今日もある一人の花魁がせっせと準備を始めていた。
 栗色の柔らかい髪に、薄紅色の花飾りで纏められた後ろ毛。
 鮮やかな紅色の着物から伸びる、滑らかな白い胸元や手足。それに、大きくクリクリとした瞳。
 紅楼閣の花魁の一人――真田幸村=B
 幼い頃に両親を亡くした幸村は、この『紅楼閣』の遊女の一人に拾われた。
 人手が足りなかったこの店で、衣食住の面倒を見る代わりに、下働きする事になったのだ。
 遊女達も幸村を可愛がってくれたし、幸村も生きていく為、恩の為に数年働いていた。
 ところが、幸村が成長すると――下働きから、今度は花魁として働く様頼まれたのだ。
(姉様達は、どうしてこの幸村などを花魁に……いくら人手が足りぬとはいえっ……)
 今日も幸村は居た堪れない気持ちで、指名のあった客の元へ向かう。
 幸村はもともと初心な性格であり、この仕事には向いていない。だが……それ以前の問題があった。
 幸村はれっきとした『男子』だったのだ。
 しかし、その事は決して客に知られてはいけない極秘事項だ。
 紅楼閣は毎日多くの客が訪れる、吉原一の大繁盛店。人手が足りないからと背中を押され客の前に出た幸村だったが、見た目の愛らしさから全く気付かれなかった。そして本人の意思とは裏腹に、いつの間にか幸村は、店でも人気の花魁になってしまったのだった――
 客が花魁と床に入るには三回足を運ばなければならなかったが、幸村に任されているのは二回の接待まで。
 男であるという秘密を守る為、決して客と床には入らなかったのだ。
 だから花魁と言っても、実際は人手を補う為の様なものだった。
「今日は大事な御得意さんだから、しっかりね」
「はい。姉様達への御恩の為……頑張りまする」
 今日も表面上では笑顔を貼り付け、他の花魁達と共に客席へ向かう。
 中にはこの仕事が性に合っている者もいたが、幸村は違った。
 初心な幸村にとってこの仕事は肌身に合わず、見ず知らずの男達の接待など辛い事でしかなかった。しかし生きてゆく為、恩を返す為には仕方がなかったのだ。
 幸い、幸村は客と床に入る事は無かった為、この仕事を続けてこられた。上手く自分が男である事を隠し続け、その容姿からか意外と客の指名を受ける事も多かったのだ。
 人気があるという事は、それだけ危うい場面もあったのだが、何とか切り抜けて来た。
 そして今宵も……幸村は気に入られた客から、二度目の指名を受けていた。
「幸村ちゃん、今日もかわええな。元気にしとったか?」
「は……は、いっ……」
 幸村がいつもの様に客の隣に座ると、腰を素知らぬ顔で撫で回される。
 床には入らずとも『お触り』は禁止とされていない為、こういった事もしばしば。その度に嫌悪感が襲って来てしまう程、幸村はこの仕事に向いていなかった。
 他の花魁達はこの仕事が天職とさえ感じているのに、幸村だけが違っていた。
 ……男なので、それも当然かも知れないが。
 客の前だというのに、表情も固く初々しいままだ。
 しかしそれがまた良いという客も多く、幸村が生きてゆくには十分の給料も貰えていた。
「今、お酌を……少々お待ちくだされっ」
 今日も幸村はぎこちない笑顔を張り付かせ、客の杯に酒を注ぎ始めるのだった――

  *   *   *

「はぁ……」
 一日の客の相手を終えた幸村は、店の最上階の出窓に手を置き、ぼーっと外を眺めていた。
 自分は姉様達の手伝いに過ぎぬのだから、その役割を果たせば良いだけ。そう思えば、少しは気が楽になれる。
 吉原は、夜も眠らぬ街。遊郭が無数存在している為、夜もまだ煌々と明かりが灯っている。
 幸村はこの明け方の時間、こうして最上階の出窓に出て、一人で空を眺めるのが好きだった。
 頬に当たる風が気持ち良いし、ここからだと朝日が遠くの山々の間から昇ってくるのが良く見える。
(綺麗でござる……)
 そう言う幸村の視線の先。それは、吉原の明かりでは無かった。
 幸村には、あるお気に入りの景色があった。この肌身に合わぬ日々の中で、それは唯一の『癒し』。
 その景色とは――この遊郭の外に広がる、長閑な武家屋敷と城下町だった。
 朝日に照らされた屋敷とその街全体が、とても美しいのだ。何より、そこで暮らしている民は、皆幸せそうに生き生きとしている。
きっとあの屋敷に住んでいる御武家様は、大層立派な方に違いない
 幸村はずっと、そう思っていた。
 民をあれだけ幸せそうな表情にできるのだから。
(某が、あの街で生まれていたら……今頃どんな生活を送っていただろうか)
 幸村は武家屋敷や街を眺めては、そこに住む人々や生活に想いを馳せるのが好きだった。
 あのお屋敷に住んでいる棟梁様は、どんな方なのだろう……と。
 今日の接待では腰を撫でられる位で済んだが、時には接吻を迫られたり、それ以上の事を迫られる事も少なくない。
 いくら花魁と言えども、接吻は好いた相手にしか許さないのが普通だった。
 だからその度に店の規則を理由に、何とか切り抜けてきた。
 男である事も、不思議と気付かれずに済んでいる。
 孤児の自分がこの街で生きていくには、こうするしか無かった。けれど、本当は―――
「っ……」
 景色を見つめながら、幸村の目にじわり……と涙が浮かんだ。
 花魁の仕事は、自分の性にはとても合わない。遊郭の外で……あの街で、もっと違う生活がしてみたい。
 この景色を見ながら、ずっとそう思ってきた。
(まだ、姉様達に養ってもらった恩も返していないではないか。贅沢を言ってはならぬ……!)
 そう自分を戒めている内に、段々空が薄明るくなってくる。幸村は現実ヘ自分を引き戻す様に、店の中へと戻っていった。夢に浸る時間は、終わったのだ。
 花魁の仕事は、とても忙しい。
 また今日も夜に備えて休み、準備をしなければならない。

 次の日、自分の運命を変える出会いがあろうとは……この時の幸村には、知る由も無かった。

   *   *   *

 ――その日、紅楼閣では普段より多くの花魁達が準備しており、何やら浮き足立っていた。
(皆……一体どうされたのだろう)
 来客予定の張り紙を見れば、見慣れぬ客人の名が数名記されていた。
「今日の客は大一座だよ!あの武田家の方々が見えるのだから」
「…………!」
 武田家――それは遊郭の外に広い領を持つ御武家様だ。
 つまり、あの武家屋敷に住む御方達が、客としてやってくるというのだ。これまで初めての事だった。
「しかも……棟梁の武田信玄様は、男として申し分ない立派な御方だって噂だよ。だから皆、この浮かれ具合なのさ」
 確かに皆、化粧や着物の着付けに気合いが入っていた。
 武家の棟梁とその家臣とくれば、客としてかなりの大物なのだ。その上、男としても上玉とくれば、花魁達の気合いも尋常ではない。気に入られて常連になって貰えれば店の収入にもなるし、床に入る事を望む者さえいた。
「だけど幸村……くれぐれも気を付けるんだよ。信玄様は人を見抜く力に長けておられるから。余り近付かない方が良いかも知れないね」
「はい。分かりました」
 いつもの様に男だと気付かれずに、姉様達の手伝いが出来れば良い。けれどまさか……あの屋敷に住む御武家様と、話が出来るなんて。その事に、心躍る気持ちを抑えられずにいたのだった。

  *   *   *

 ――約束の時刻。
 幸村を含む花魁達は、客人である武田家の待つ部屋の襖を開けた。
「…………!」
 真っ先に目に入ったのは……灰色の着流しに羽織を肩に掛けた御方だった。
 きりりとした眉に、切れ長の瞳。彫りが深く鼻筋が高く通った男らしい顔立ち。流石武家というものか、少し見える胸元だけでも鍛えているのが良く分かる。
(御武家様というのは、ここまで男らしく、お強そうな――)
 中心にいるその人物こそが、きっと棟梁の武田信玄様なのだ。誰に言われずとも、一目瞭然だった。
 周りの方々も御武家様らしい屈強な雰囲気があったが、その御方はそれ以上だった。何というか……周りの家臣の方々とは、纏う空気さえも違っていたのだ。
 ……否、これまで出会ってきた、どのお客人とも違う。
 この御方は……きっと特別な御方なのだ。
 本能が、そう直感していた。
 自分の様な経験の浅い花魅では相手に出来ない、手の届かない御方。やはり、あの武家屋敷の主は素敵な御方だった。立派な方と噂される理由も良く分かる。
 姉様に続いて正座しながら、思わずその男らしいお姿に見蕩れてしまう。すると……その瞳が突然、真っ直ぐに此方を見据えた。
「っ……!」
 途端に、かぁっと顔が熱く火照る。一瞬なのに目を合わせていられず、視線を下に外してしまう。
(どうして、今真っ直ぐにこちらを見て……)
信玄様は、人を見抜く力に長けておられるから――
 姉様の言っていた事を思い出す。動揺でドクドクと胸が高鳴りだした。
「武田家ご棟梁の信玄様、それにご家臣の皆さま、本日は良う来てくださいました。こちらへは初めてとか?」
「ええ、そうなんです。お館様は普段お忙しい御方で……堪にはこういった場所で骨休めして頂こうと」
 家臣の一人が、やや浮かれ気味の口調でそう言った。お館様の名を出してはいるが、どうやら一番来たがっていた様だ。
「そうだな……この紅楼閣は芸事に秀で、教養の深い花魁が多いと聞く。楽しみにしておるぞ」
 花魅達を見て、お館様はその凛々しい瞳を細めて笑んだ。今までの客とは違う……全身から溢れる威厳と男らしさ。その場にいた花魁は全員心を奪われ、一瞬言葉を失った。
 最後にまたこちらを見られた気がして、胸の鼓動が弾む。
(まさか……いや、しかし……念の為、あの御方には近付かぬ様にしよう)
 今までどんな客にも、自分が男である事は気付かれなかったのだ。いくら洞察眼のある御方とはいえ、大丈夫だろう。
「では信玄様、早速……私めが舞をご披露いたします」
「さあ、御酌を……」
 姉様達が周りを取り囲み、お酌を始める。お館様が噂以上に素敵な御方だった為か、姉様達は本気だった。
「……では、有難く頂こう」
 そんな姉様達の邪魔にならない様、家臣の方達にお酌して廻る事にした。
 お館様は姉様達の質問攻めや、手厚い接待を受けていたが、ただ落ち着いた様子で受け答えしていた。これまでの客の様に、花魅に手を出そうともせず。
(やはり……立ち居振る舞いも、素敵なお方にございまする……)
 気が付けば、遠巻きにお館様に見惚れていた。
 今までの客とは……何もかもが違う。
 武家の棟梁としての威厳と、凛とした男らしさに満ち溢れている。
 そんなお館様は、ますます憧れの存在になった。いつも眺めていたあのお屋敷に住んでいるのは、やはり素敵な御方で……それが嬉しかった。
 いつも接待は苦痛であるのに、今だけは近くでお話出来る姉様達が羨ましかった。
(お館様をこんなに近くで見られた事……それだけは、花魁をやっていて良かった……)
 幸村は密かに、天に感謝した。
 普段の生活では、出会える筈も無い御方。手の届かぬ場所にいる御方――
 きっと今日出会えただけでも、奇跡なのだ。
そんな想いを込めて、お館様をじっと見つめてしまう。
「……お主――」
 すると、それに気が付かれてしまったのか、お館様の視線が此方に向けられた。また顔が熱く火照って、思わず瞳を逸らしてしまう。
「そこの、紅の着物のお主――名を何という」
「……え……?」
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 お館様が名を聞いて下さっている。姉様達の引き立て役に過ぎない自分に……お館様が、目を留めて下さった。
「さ、真田……幸村にございます」
「幸村か……良い名だ。隣に来て、酌をしてくれぬか」
「っ……!」
 ドクリ……!
 心臓が……止まってしまうかと思った。細められたその瞳が、真っ直ぐに此方を見て微笑んでいる。
「信玄様、あの……お言葉ですが、幸村はまだ未熟な花魁。ご満足させられないかと……」
「……そうであったか。しかし満足するかどうかは、客の儂が決める事。そうであろう」
「…………!」
 自分の様な下っ端の花魅が、お側に寄る事さえおこがましく思えた。
 この御方の、全てを見抜く様な真っ直ぐな瞳。近づくのは危険だと悟ったばかりなのに……お館様が掛けてくれた言葉が、嬉しくて堪らなかった。
「どうした、幸村。お主、接待は不得手か。ならば無理強いせぬ」
「い、いえ……っ。この幸村などで宜しければ、喜んで……!」
 接待が不得手な事も、もう見抜かれていたけれど……花魁として断る訳にはいかない。
 言われた通り隣に座り、お館様の杯に丁寧にお酌する。その間、お館様はじっと某の様子を見つめていた様だった。突き刺さる様な視線ですぐに分かる。
 こんな至近距離では、視線を上げる事さえ出来なかった。緊張に手が震えて、顔が燃える様に熱い……
「幸村。お主はずっとこの店におるのか」
「は……はいっ。幸村は、まだまだ未熟で……姉様達に助けられてばかりにございます」
 そう答えて、思わず顔を上げる。その瞬間……胸の鼓動がドクリ!と跳ね上がった。
目の前のお館様の表情が、とても優しげに見えたから。
「……そうか」
 その時は、ただその一言だけで……杯を口元へ運ぶそのお姿を、見つめていた。





本文へつづく

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