最低な、男
□最低な男《2》
1ページ/1ページ
思い出したくもないあの最悪な出来事の後。
電車から降りた隼人が地図を頼りに歩き回ること数十分。
「――ここ、でいいんだよなぁ…?」
ボンゴレから支給された家の前に立ち、隼人は呆然と建物を見上げた。
ディーノから渡された地図を何度見返しても場所はここで間違いない。そう、間違いないはずなのだが……
「寿司屋……?」
自宅に着くはずが、なぜ寿司屋?
2階建てのそこには、達筆な字で寿司と書かれた大きな看板に、扉にかけられた準備中の札。見紛うことなく寿司屋のここが、まさか自分の住居となるはずがない。
それに天下のボンゴレがよもや寿司屋をあてがうとは信じられない。
――きっと、ここに住む人間がアパートだかマンションだかの鍵を預かっているんだろう。
そうだ、そうに違いない。
一抹の不安を抱えながらも半ば無理矢理自分を納得させた隼人は、一つ息をついて取っ手に手をかけた。
「いらっしゃい!お客さん、悪いっスがまだ準備中………お?」
快活な声を出して振り向いた男は、隼人を見ると目をしばたかせた。カウンターを拭いていた手を止め、まじまじと隼人を見る。
やはり間違った場所に来てしまったのかと内心焦る隼人だったが、男はすぐ表情を変え、ニッコリ笑った。
「おーおー良く来たねぇ。ささっ、上がってくんな!」
こっちだと隼人を案内する男に戸惑いながらも中に入ると、畳の敷かれた居間のような場所に連れていかれた。
男に促されるまま、隼人はちょこんとちゃぶ台の前に座らされる。
「それであの、鍵を――」
「おっと!お客さん相手に何も出さないのも失礼な話だな。今茶ぁ持ってくるからちょっと待ってくれな!」
「あ、あの――っ」
家の鍵さえ貰えればそんなものいらない…そう言おうとした隼人などお構い無しに、男はパタパタと部屋を出てしまった。
中途半端に手を上げたまま隼人は一人部屋に残される。
「………はぁ〜〜…」
なんなんだ、一体。
自分の今の現状に深い溜息が出る。朗らかでいて押しの強い男の動きに翻弄されて、調子が狂ってしまった。
こんな筈ではなかったのに。日本に来てから、本当に、自分の思い通りにいかないことばっかりだ。
保護者として一緒に来て置きながらちっとも役に立たないディーノに、いまだお目にかかれない10代目。なかなか鍵を渡さない寿司屋の親父。
そしてそして…
電車で会った、失礼極まりない男。
痴漢の被害者である自分を恐喝と勘違いし、しかもあろうことか…
「あーっ!思い出しただけでも腹立つーー!!」
キィっと叫んで隼人は銀色の滑らかな髪をかきむしった。
あの男、信じられない。
俺のことを男だと間違えたばかりか、
「むっ、胸を……」
思い出すだけで羞恥に頬が熱くなるようで、隼人はブンブンと頭を振った。
全てなかったことにしたいのに、自分は身を焦がすほどの恥辱的な言葉も、学生の筋張った手の感触も忘れてはいない。
あああ!もうっ、もうっ、最悪だ。こんな屈辱を受けるくらいなら、いっそイタリアに帰ってしまいたい…!
それが無理ならせめて1人きりになりたいと、早く自分が住むことになる家に行きたいと思うのに。寿司屋の男はなかなか戻ってこない。
どうしたのかとイライラしだした隼人の耳に、ガラガラと扉が開く音と、なにやら話す声が聞こえてきた。
「…ただいまー…」
「…おぅ、おけーり!ついさっき……が…」
「…マジか、わかった…」
声が途切れたと思ったらドタドタとこちらに向かう足音がする。ようやく戻ってきたかと隼人が姿勢を正すと、襖がいきおい良く開かれた。
「こんっちは、初めましてー……………あ、」
「………え?」
入って来た男を視界に捉えた途端、隼人は大きく目を見開いた。
しかしすぐさま目の前の存在を否定する。
見ない、見えない、見たくない…
自分の容量を超えた出来事に、隼人の脳内は考えることを拒絶したようだ。
(なんで…なんで、こんなところに……)
隼人の視線の先には、あの最低最悪な男が立っていた――。
最低な男は、
会いたくないのに再会する。