よろず部屋

□貴方に、繋がる物語
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「…それで?コウは、…どうしたの?」

僅かに遠慮を含んだような幼い声は、それでもはっきりと話の続きを促した。

見上げて来る大きな焦茶の瞳は、真っ直ぐに此方に視線を注いで、誤魔化しを許さない様子が伺える。

嘗ての上司を思い出させるその率直さに、まるで似ていない筈の暗緑色の双眸が重なって見えたのは、今話して居る――話そうとしている内容の所為だろうか。

一瞬外したくなる視線を堪え、目の前に座る少女を見詰める。零れ落ちそうな瞳に、嫌に暗い己の貌が映り込んで居る。

――あの時の、あの縋るような瞳にも自分は映って居たのだろうか。それはどんな姿だったのか。

「……何もしなかった」

「何も?」

小さく首を傾ける少女に此方も僅かに顎を引いて見せる。

「そうだ、俺は何もせずに、アイツに背を向けた」

そして、それが最後だった。

そこ迄は言わずに、けれどその意味を乗せて口を閉じれば、眉を寄せた少女の眼には強い非難の色が宿る。その余りにも素直な反応に、知らず浮かんだ苦笑が焦茶の瞳の中、狡噛を見上げて居た。

大きな焦茶の双眸。真っ黒な、肩迄の髪。凹凸の少ない造りの顔の中で少しだけ上向いた鼻。白くも黒くも無い、黄味掛かった肌の色。

明らかにアジア系…黄色人種の外見的特徴を持つ少女だが、その小さな唇から快活に飛び出るのはこの国の、現地の言葉だ。

年の頃は10歳前後。そして名前は『ノノ』。

彼女は、帰るべき国と、生まれた国の言葉を失った――日本人だった。

日本人の顔した少女は、異国の言葉で問うた。

―――どうして、と。

***

一人の人間の命を、己が意志で、憎しみで奪った。

3年の間、只ひたすら憎み、執念だけで追い続けた相手だった。それを殺した。3年前に思い描いていたのとは随分違った形の結末だったが、この手で終わらせる事が出来た。

達成感も高揚も、増してや後悔や罪悪感すらも感じない。

その時の狡噛が最も強く感じたのは、安堵と云う物だった。やっと肩の荷を下ろせたような気がした。

そして、感情を伴わなずただ事実として思ったのは、もう、戻る場所は無い、と云う事だ。ならば、この地で逃亡犯として逃げ隠れ続けるよりは、日本を捨てよう。当然のようにそう考えた。

海外へと行く違法船に渡りを付け、それへと乗り込んだ。

その時の一瞬だけだ。足が止まったのは。それさえも吐息一つで振り払った。後は振り返る事すらしなかった。自分はこの街にこの国に望んで捨てられ、――そして、捨てるのだから。

初めての船の乗り心地は想像以上に酷く、最初は吐いてばかりだった。動物的な奴の方が三半規管が優秀な分、船酔いは酷いって話だがな。船員の一人のそんな戯れ言に笑う事も皮肉を返す余裕も無かった時期をどうにか通り越し、揺れに身を任せながら文庫の文字も辿れるようになった時には、漠然と、世界の遺跡や都市であった場所を見て廻ろうかと考えて居た。目的は無いがそれもまた良いだろう――そう、思って居た、筈だった。

それが呆気無く崩れ去ったのは、異国の港に足を着けた時だ。

靴底に硬い石と砂利の感触。動き易さを考えて履いた筈のスニーカーの、その爪先を何処に向けたら良いのか、まるで判らなくなった。

思えば、己の足の向かう場所に迷った事等無かった。学生時代も。忙しさと慣れに追い立てられていた監視官時代。執行官に堕ち、標本事件の手掛かりも得られず、ただ潜在犯を狩るだけの猟犬の日常を送って居た時でさえも。

この爪先は行くべき場所を向き、この両足は駆けるべき場所を駆け抜けた。迷いも戸惑いも、僅かの逡巡さえも感じた事は無かった。――それなのに。

今、自分が何処へ向かえば良いのか判らない。何をすべきなのか。何がしたいのかも、判らなかった。

俺は、何を――?

何処へ。

自問の耳に、不意に聴こえた音に、弾かれたように振り返った。身体毎そちらへ向け、しかし、その爪先を踏み出す事は適わなかった。

振り返った先に在ったのは、ただ、波音を響かせるだけの夜の海。

戻る事は出来ない。

――もう、戻る場所等、在りはしないのだ――。

目の前にただ横たわる漆黒に、己の意識が侵食されて行くのを、狡噛は確かに感じて居た。

***

「どうして?“ギノ”を助けなかったの?“ギノ”は、コウの、一番の…とっても大切な友達だったんでしょ?」

少女は言い募る。その眼には己の疑問を解消したいだけでは無い、ある種の情が見て取れる。その情は誰に向けられたものであろうか。自分か。それとも少女がぎこちなく口にする“ギノ”に対してなのか。


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