よろず部屋

□海の見える街にて
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初めての恋をした。

その人以外の人間は欲しく無い。と迄思わせるそれは、魂すら縛る強烈な初恋だった。



***

「あら、お早う、エレン」

リビングのドアを開けた俺に掛かる挨拶に、短く、「…はよ」とだけ返し、食卓に着いた。黙ったまま籠のパンに手を伸ばし掛け、咎める視線に気付いて、言った。「いただきます」。途端、笑みを取り戻した母親が、それでも俺の目許をチラリと確認したのを気付かない振りでパンを取り、二つに割って口に放り込む。

「今日のはどうかしら?」

「――65点。ちょっと焦げてる」

忌憚の無い意見を口にすれば、彼女は小さく唇を尖らせる。子供っぽい仕草。癖の強い髪が肩先で揺れる。瞳の形と髪の色を俺に遺伝させたこの母親は、カルラ・イェーガーでは無いし、父親はグリシャ・イェーガーでは無い、極一般的な会社員だ。

「お父さんは美味しいって言ってくれたわよ」

「そりゃ、そう言わないと母さん、拗ねるからだろ」

それでも、俺は、エレン・イェーガーと云う名前でここに、この街にこの国に、この時代に、存在する。

もう一つの、己の記憶を所有したままで。



***

俺は、今まで自分の事を泣きむ…いやいや、ごほん、…涙脆い等と思った事は無い。

そりゃ、感情が高ぶると涙が出て来る事が無かったとは言わない。けれど、そんなのはホンの数回。数える程の回数だ。…その筈。

なのに。

それなのに。その筈なのに、何故、なんだろうか。

あの人に、自分の好意を伝えようとすると、勝手に涙が溢れて来る。

最初は極普通に、「好きです、大好きです。リヴァイ兵長」と告げていた(と思う)。初めてその告白をした時から一貫してはぐらかす態度を取り続ける兵長に何度も心砕かれ、けれども誠意と根性を持って告げ続ければいつかは通じるのでは無いか、との蜘蛛の糸なんかより余っ程細い希望に縋り、告り続けたある日、突然に唐突に、俺の涙腺は崩壊した。

その時の兵長の貌は忘れられない。

元々表情筋が活発な人では無いが、その時ばかりは誰が見ても判る位には、表情が固まっていた。

「…え?あれ…?何で…」

いきなり歪んだ視界と、熱くなった両眼。ぼたぼたと頬を伝って落ちた温かい水滴に思わず呟けば、口を開いた所為か、大きくしゃくり上げてしまった。

「……おい、エレン、泣き止め」

「…っ、は…い、っ」

茫然としたようなリヴァイ兵長の声に涙声で応える。上官の命令は絶対だ。

それに従うべく、取り敢えず奥歯を噛み締めてみるが、目から溢れる水は一向に止まる気配を見せない。喉は痙攣するばかりでまともな言い訳すら出来やしない。やべ、鼻水垂れそう。

大きく啜り上げたら噎せた。

咳き込みながら、それでも止まらない涙に、本気で情けなくなった。そうなると益々涙なんてものは治まらなくなる。

「……ぅ、え、っ、へ……ちょ…っ」

「エレン?」

「っ、ずみ゛ま゛ぜ…っ、どま゛り゛ま゛ぜ…っ、っずぎ、で…ず、う、う、だぃ、ずぎで…っっ」

涙と鼻水で俺の顔は、最早ぐちゃぐちゃだった。

それでも、嗚咽としゃくり上げで禄に機能しない喉で、あの人に愛の告白をし続けた。

兵長に取っては(いや、俺に取ってもだけど)、実に酷い惨状だったろうその最初の一件で、どうやって俺の涙が止まったのか、…は、実は記憶に無い。気が付けば俺は、今は地下では無い自分のベッドで寝ていた。

恐怖とか疲れからってのなら兎も角、泣き過ぎて、感極まって気絶とか。

何処の深窓のご令嬢だよ?俺は。穴があったら入りたい。いや寧ろ、巨人化して地面に大穴を掘り、しかるが後に自力で元に戻り、穴の底にて上から土が降って来るのを待ちたい。…やらねぇけど。

泣き過ぎから来る頭痛を抱えながら涙で浮腫んだ顔を洗い、逃げ出したい程の羞恥と共にリヴァイ兵長の部屋を訪ねて、深々と頭を下げた。

「昨日は大変ご迷惑をお掛けしました!!」

「…おう」

謝罪を受け入れて貰えたんだか、良く判らない返答。けれど、この人が怒って居ないのはハッキリと判って、俺は下げた頭を上げないままに胸を撫で下ろした。

「頭」

「はい?」

ボソリと呟かれた声が良く聞き取れなくて、顔を上げる。見遣った小さな貌は、矢張り怒って等居なく、いつも通りの落ち着いた声が小作りな唇から発せられた。

「頭は痛くねぇか?」

そんな。迷惑掛けたのは俺なのに。気遣ってくれるなんて。この人は…!

「だ―――」

いじょうぶです。と、俺は言う事が出来なかった。

「――ち!」

「うぶ!?」

鋭い舌打ちが聞こえたのとほぼ同時に、視界が白で覆われた。


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