よろず部屋

□まだ見ぬ君の為の僕
1ページ/12ページ


頭の奥で、嫌な……とても嫌な音を聴いた。

覚えているのはそれだけ。

そして目を醒ました僕は、とても大切な『何か』を失っていた。








『〜〜でな、振り回しやるともうメチャクチャ喜ぶんでこっちもつい調子に乗ってたら、手ぇ滑ってポーンと』

「…まさか、自慢の愛娘、放り飛ばしたとか言わないよね?」

『飛ばした』

「ちょっと」

『いや、斜め上へと飛ばしたからさ、床に落ちる前にキャッチ出来たんだけど、あかりの奴、それ迄で一番って位喜んじゃってもっとしろもっとしろって、涎ダラダラ垂らしながら強請って来るんだよ。後で嫁には散々怒られるし、本当参った』

「…………」

『けど、ウチの娘は将来大物になると確信した出来事ではあったな』

「……結局、ムスメ自慢になる訳…」

携帯を持たない方の手で額を抑え、僕は溜め息と共に呟いた。

2年前、おっかなびっくり抱き上げた僕の肩にミルクゲロを吐き掛けてくれた姪っ子は、どうやら大変なお転婆娘の片鱗を見せ始めているようだ。

年に数回しか会わない僕の事を、幼児が叔父と認識しているかどうかは怪しいが、最近では、スポーツチャンネル等で僕が映る度、「けいたんけいたんばーん」とブロックの真似事もするらしい。

親馬鹿全開の兄に言わせると、『将来有望』となるんだけど、正直、2歳児にそこ迄期待するのはどうかと思う。まあ、兄としても、期待が半分、後の半分は願望と云った処だろうけれど。

苺とバナナとミカンと、そして肉が大好物で、この間、祖母(僕の母だが)に買って貰った赤い靴がお気に入りで、一昨日テーブルの角に頭を打つけて、大きなたんこぶを作って大泣きをした。

年に数度しか会わない姪っ子――月島あかりの事情を、僕がこうも知っているのは、無論、週一ペースで掛けて来る兄の電話あっての事だ。

『調子はどうだ?』から始まり、『週刊あかりちゃん』(僕命名)で一頻り娘の近況と自慢を繰り広げた後、『体調は悪く無いか?』と、兄は訊く。

それは、僕が家を出てからずっとの事だった。娘が産まれる前は嫁自慢だったし、その前は他愛も無い世間話だったりしたけれど、最初は軽く、そして改めて少し真剣に僕の体調を問うて来る。幾度も繰り返された言葉。

心配されている。その理由が判るだけに、そして、兄にそうさせているのが自分だと理解出来るが故に、それを過保護だと振り払う事も出来ないまま今に至る。

兄の中の僕は未だに、頭に包帯を巻いて、病院のベッドの上で首を傾げた姿のままなのだろうか。兄にも僕にも、その生活にしたって、確実に時は流れていると云うのに。

……もう、あの時から十年も経ったのに。

……それとも。

十年、経ったから、なのだろうか。





***

十年前、高校卒業を間近に控えた僕は、交通事故に遭ったらしい。

らしい、と言うのは、僕自身に事故に遭った時の記憶が無いからだ。

下校しようと校門を出た処迄は覚えている。が、僕のその次の記憶は、病室の天井だ。ぶら下がる点滴のパックを見て、その管が自分に繋がってるのを知って、もう一度霞んだ天井を見上げて、そこで漸く眼鏡を掛けてない事に気が付いた。思い出す度に、当時の己の間抜けさに呆れてしまう。

身体のあちこちの痛みと巻かれた包帯、その下の傷を見るに自分が車に挽かれたとの医者の言葉は事実であると悟ったが、それにしても事故の記憶が全く無い事に首を捻った。

背後から撥ね飛ばされたのなら、そう云う事もあるかも知れないが、複数の目撃証言に拠ると、僕は自分に向かって来る車を確かに視認していた、と云う事だった。

そして、もう一つ。僕が事故に遭った場所は、校門を出てすぐ、ではなく、もっとずっと自宅に近い交差点なのだと言う。

――事故の衝撃に拠る一時的な記憶の混乱でしょう。

医者はそう言った。僕も…僕だけじゃない、周りの皆…家族もそうだと頷いた。

いずれ思い出すかも知れないし、仮に思い出せなくとも、自分が車に撥ね飛ばされた瞬間の記憶なんて無くしたままでも別に困る事でも無い――そう考えていた。

――そう。

あちこち怪我を負って、検査を兼ねての数日の入院を余儀なくされたが、奇跡的に何処も折れて無く、重傷と呼ばれる程では無かった。

誰もが、僕自身も、安堵の息を吐いていた。

――“その事”が発覚する迄は――。









***

「……大丈夫。心身共に問題無いよ」

その時々の表現で、僕は兄に同じ事を伝える。

大丈夫。心配いらない。元気だよ。変わり無いよ。

大丈夫。


次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ