よろず部屋

□まだ見ぬ君の為の僕
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『…そうか』

そう言う兄の声は大抵同じだ。安堵。それでも何故か滲む不安。それから、『じゃあ、またな』…と。

『お前、近い内に一度顔でも見せにこっち戻って来ないか?』

……まあ、パターン通りでは無い事もある。

結婚を期に実家近くに居を移した兄の言葉に、僕は小さく首を傾けながら言った。

「んー、考えてないケド、何?何かある訳?」

姪っ子の誕生日は確かまだ先だった筈だし、七五三にはまだ早い。

兄の用事と云うと、今現在は娘関連しか浮かばない僕がそう考えていると、電話向こうの声は少しだけ口ごもったようだった。

『…いや、特に用とかは無いけど、ほら、父さん母さんや、こっちの人達とも暫く会ってないだろ』

無理に絞り出したような理由に、僕は、ああ…と、やっと気付いた。

十年前とは関係無く、“今の僕”が心配されているのか…と。







***

「そんな事、ある訳無いんだ!もっとちゃんと調べて下さいよ!!」

そう、兄は医者に喰って掛かっていた。



それは、病室で見舞いに来た兄と雑談めいた話をしていた時だった。

「……?」

兄の言葉にどうしても聞き取れない箇所が在った。

「え…?なに?」

「何…って、『  』だよ」

「え?なに?」

そんな遣り取りを繰り返し、結局兄のその言葉を聞き取る事が出来なかった僕は、それでもそれ迄の会話の流れからそれが人名であると判断して、軽く…本当に軽く、訊いたのだった。

「誰?それ」

その瞬間、それ迄訝し気な表情だった兄の顔色が劇的に変わった。

その変わり方は余りにも急激過ぎて、僕に得体の知れない不安を抱かせるには充分だった。

「ちょっ?兄ちゃん?大丈…」

そう言い掛けた僕に構わず、兄は声荒く、何度も聞き取れない言葉を繰り返す。そして僕が本当に理解していないと判ると、血相を変えたまま病室から飛び出して行った。

程なくして病室に現れた医師は、兄と同じく僕に聞き取れない単語を幾度か試した後、静かな口調で僕と兄、それから駆け付けた両親に更なる精密検査の必要を告げたのだった。

そして、また別の医師の問診を受け、脳を輪切りにして見せてくれる機械へと突っ込まれ、それからまた違う医師からの問診を受けて――下された診断は、“異常無し”と云うもの。

医者は言った。

「…蛍君の脳に、異常箇所は見付かりませんでした。また、事故の瞬間の記憶が失われる、と云うのは実はそう珍しい事では無いんですが、蛍君の場合はそれだけでは無く、特定の事に関してだけ記憶が失われ、更にはそれ自体が認識出来ていない」

そこで一度息を吐いた医師は、努めて冷静に切り出した。

「蛍君の記憶障害は事故に因るものでは無く、心理的なものが事故に遭った事により表面化した可能性が高いように見受けられます」

その言葉に、「そんな事無い!!」と叫んだのは、僕ではなくて兄だった。

普段の優し気な容貌を鬼のように険しくさせて、医師に詰め寄った。涙ぐむ母や苦し気に貌を歪める父の制止も振り払って、何度も医師に訴えていた。

ちゃんと調べて下さい。

蛍が『  』を忘れるなんて。

自分から忘れるなんて。

ある筈が、絶対、無いんだから!!

僕は。

ただ黙ったまま眺めているだけだった。

激昂する兄を、泣き出した母親を、辛そうな父親を。それを宥める医者と看護師を。

酷く現実感の希薄な光景をただ見ているしか出来なかった。

だって。

俄かに信じられる話では無い。

僕が、己の記憶から一人の人間を消してしまった、なんて。

そして、それを、自覚する事すら出来ないでいる。

なんて。

そんな馬鹿げた話。










***

「――もしかして、心配してる?」

『まあな』

ちょっと試すように言った僕に、あっさりと兄はそれを認める。兄弟なのに、こんな処が僕と兄の違いだ。重ねた経験や年季とかじゃなくて、元々の性格の違い。

「――僕なら大丈夫だよ」

もう、何度と無く繰り返した言葉をまた紡ぐ。何度と無く。けれど十年前から兄に対しては、一度としてその場しのぎで口にした事は無い。そんな言葉。

「それにこのタイミングで帰ったりなんかしたら、お互いに変に気、使うでしょ。そんなの疲れるし。悪いけど嫌」

半分位は本音の混じった僕の台詞に兄は苦笑を聞かせる。

『気にする事無いっても無理か』

「無理。気になる。……と云うのは冗談にしても、ホント、僕は大丈夫だから。落ち着いたらちゃんと顔見せに行くから」

『…絶対だぞ?』

「うん、じゃあ、また」


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