ハツカノ

□ハツカノ4
1ページ/3ページ


『姫さん、絶対そいつに惚れとるで』

俊二が言った言葉が頭から離れない。
巧は一つ溜め息をついた。
誰かのことを好きだと思うこと。
誰かのことを大切だと思うこと。
自分は今までに一度もそんな気持ちになったことはなかった。
そんな自分がまだ出会って数日しか経っていない男に特別な感情を抱くのだろうか?

『でも…』

豪の笑顔が脳裏に浮かぶ。
あの笑顔、あの声。
思い出すと心の中がぽっと灯でも点ったように温かくなる。
こんな感情は今まで出会った誰にも感じたことがなかった。

「ちっ…」

巧は一つ舌打ちをした。
普段親からは女なのだからそんな粗雑な行為をするなと言われる。
しかし、そう言われたことも忘れるほどに今日の巧は苛立っていた。
そもそも、誰かのことを考えてこんなに頭の中がぐちゃぐちゃになるなんて、自分らしくない。
すっと深呼吸をした。
肺に入って来る空気がほてった頭を冷やしてくれる。
ずいぶんとぼんやりとしていたようで、もう日は陰り始めていた。
風を全体に受ける屋上では、少し肌寒さを感じる。

「帰ろう」

巧は橙色に沈みかけた太陽に視線を走らせ、屋上の扉の方へ歩いていった。




『今日は遅くなっちゃったな…』

巧は学校の最寄り駅まで早足で歩く。

『それもこれも、あの永倉豪のせいだ』

自分が勝手に心を掻き乱されたにも関わらず、検討違いな怒りを豪にぶつけた。
駅の正面に設置された時計は、もう午後の六時を指している。
いつもの帰り時間より一時間ほど遅い。

『今日はバスで帰ろうかな…』

帰りが遅くなる時は、バスで帰って来るように言われていた。
バス停が家のすぐ近くにあるため、電車よりもバスの方が早く家に着くからだ。
定期入れからバスの回数券を取り出した瞬間、耳にあの優しい声が入ってきた。

「原田さん」

その声に呼ばれると、心臓がきゅっと痛くなる。
振り向くと、今日巧の頭を悩ませていた人物がそこにいた。

「なんで…?」

疑問のままに口を開いた。
なぜ豪がここにいるのか。
ここは巧の学校の最寄り駅で、豪の学校は巧の駅と真逆の方向にある。
豪がここの駅を通るはずないのだ。

「原田さんに、会いたいと思ったんじゃ」

巧の目が驚きに大きく見開かれる。
それに気付いていないのか、豪は会えてよかった、と微笑んだ。

「待ってたのかよ?」

会う約束なんてしていないのに。
いつ帰ってくるかわからないのに。
待っててくれたのか?
胸がじん、と熱くなる。
こんな感情は初めてで、どう言ったらいいかわからない。

「うん」

豪が満面の笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
原田さん、帰り遅いんじゃなぁ、などと呑気に喋っている。
今日はバスで帰るんか?と尋ねられても、おざなりな返事しかできない。
なんで、なんでこんなに胸が苦しいんだろう。
顔が熱くなるんだろう。
呼吸が苦しいんだろう。

「原田さん?」

巧の様子がおかしいことに気付いた豪が、訝しげに巧の名前を呼んだ。

「もしかして、体調悪いんか?」

違う、と言って首を左右に降ったが豪は納得せずに、早く家に帰り、と巧の背中を押した。
押されたままにバス停の方へ歩き出す。
豪がニコニコと手を降っていた。
まだ会って15分ぐらいしか経っていないのに、お前はそれでいいのかよ。
たった15分会うために、何時間も待ってたのか。
胸がさらに苦しくなる。
顔が熱くて両頬を手で覆った。
ああ、もしかして、これが。

「永倉さん…」

巧が勢いよく振り返った。
豪はまだこちらを向いている。
急に大きな声を出した巧に驚いているようだ。
目を真ん丸にして、巧を見ている。
ぐっと空気を吸い込んだ。

「好き、好きだ…」

頬に赤みが増した。
豪は目をさらに大きく広げ、心底驚いているようだ。
巧は早口でまくし立てるように言葉を発する。

「今週の日曜日、映画観に行かないか?」

緊張で声が震える。
足ががくがくとして力が抜けてしまいそうだった。

「行く、死んでもいくけん!」

先走ったことを言ったかもしれないと思ったが、豪は大きな声で答えてくれた。
よかった。
少し足の震えが収まる。

「じゃあ、10時にレッチェの前で…」

巧はこの近くの唯一映画館がある横手のファミリーレストランの名前を出すと、豪が了解する前にバス停の方へ走って行った。

『言ってしまった…』

豪と別れてから急いで飛び乗ったバスの中で、巧はやっと落ち着きを取り戻した。
凄いことをしてしまった気がする。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ