◆◇戦乱万華◇◆
─巻之参拾五─





事実とは、必ずしも真実とはなり得ない。
覗く方位を違えれば、容易く事実は翻る。
安曇山は広罹の南に。
けれど、美瑪から安曇山は北に。
同じ場所を見れど、立つ瀬が違えば方位は逆しま。
山は変わらねど見る者が異なればその身は移ろう。
『まこと』が何処にあるものか、濁流の中にある者にどうして解ろうか。













高らかな嬌声を上げながら踊り狂う六花の踊り子。
翻すは儚げな羽衣ではなく、不可視の刃。
薄く細やかに、けれど無数に舞い散る刃は一度触れれば肌という肌を夢幻の刃に切り伏せていく。
乱れ舞う純白の剣舞。
ゴウゴウと唸る風は、踊り子の舞いに感嘆を評す冬将軍の雄叫びか。
ぱきん……と炭が一つ割れ、微かな熱が深紅を纏って寒気に抗う。
閉めきった室内は、しかし完全な防寒には及ばない。
暖を求めて燈された火桶は、その身の周囲をじんわりと温めてくれるけれど、室内の情勢は寒気の圧勝。
傍らに点された灯台は、僅かな明かりを落とすだけで暖などは望めない。
滲むような明かりの中、閉じられた蔀から滑り込んでくる微かな針風。
ぼんやりと向けた瞳は、蔀を抜け遥か彼方。


「……無事に……着けるんやろか」


ころり。
踊り子の振るう剣圧にすら掻き消されるほど、微かに。
零れた呟きは青年──白石の抱く懸念そのもの。
陽女神すらまだ起きやらぬ暁降ち(あかときくたち)
淡い藍闇へと送り出した背を瞼裏に呼び返しては、冬の息吹に胸を塞がれる。
彼等は無事に逃れる事が出来ただろうか。
この吹雪の中では、満足に身動きもとれないだろう。
凍える氷雪の檻に囲まれ、追っ手の蹄を恐れ。
城を抜けた彼等の心情を思えば、心の臓腑を氷指に握り潰されるようだ。
どうか無事でと、吐きかけた願いは引き結んだ唇の中に消えた。
かたかたと揺れる蔀。
ぼんやりと焦点なく外界を見遥かす白石の背に、新たな軋みが届いた。
それはゆっくりと、しかし確かに近くなる。
風雪に紛れるほどに微かだったその音は、次第に大きく近く。
やがてそれは、白石の詰める座敷の前で途切れた。


「邪魔すんで」


開け放たれた戸が、とん、と微かな音。
同時に響く、甘すぎるほどに艶やかな美声。
蔀の向こうを茫洋と眺め遣る視線が急速に収束し、現実味を帯びる。
同時に、腹の中で大きな舌打ち一つ。
振り向かずとも解る。
その濃密なまでに妖艶な気配。
そして、背に刺さる緩やかに細められた──けれど如何なる隙をも見逃さぬ怜悧な視線。
跡部の片腕であり、広罹一の軍師と名高い知将──忍足だ。
白石の返事も待たず動く気配は、畳を滑り座敷の中央へ。
しゅるりと聞こえる衣擦れは、忍足が火桶の向こうに腰を落とした知らせ。


「はー……今日は冷えるなぁ……」


火桶に手を翳し、温まった指先を擦り合わせる。
痛みを齎すまでにキンと冷えきった空気は、瞬く間に全身の体温を奪う。
息を吹き掛けては火桶に翳し、暖を貪る忍足はなんとも暢気だ。
艶やかすぎる美貌を持ちながら、この忍足という男はいつもそうだ。
いつも穏やかに微笑み、怒りに取り乱す姿など一度たりとて見せやしない。
戦場であれども細めた瞳はそのままに、微かな笑みは微塵も揺らがない。
甘い容姿に女を虜にし、けれど柔らかな物腰は誰に対しても隔てなく。
武将というにはあまりに穏やかで、いっそ暢気と言えるまでに彼の周りにはゆったりとした空気が満ちている。
彼を昼行灯と影で揶揄る老将も少なくはない。
だが白石に言わせればこの忍足という男をして、どこが昼行灯だというのか。
ぎゅっと一度唇を結び、目を閉じる。
穏やかな微笑を湛える、濃色の瞳。
けれどそれが、何よりも恐ろしいものであると知っている。
忍足の前には如何なる謀りも無意味。
その深い深海の如き慧眼は、僅かな綻びすらも見逃さない。
彼が白石の元へ訪れたのは恐らく──否、間違いなく、彼の少女らの失踪に関すること。
彼が昼行灯だなどと、いったい誰が言ったのか。



「なぁ、白石?」


 
ぱんっ、と一際大きく弾けた炭が、赤赤と舞い散った。
どくりと跳ねた内腑は、弾けた暖も及ばず。
きり……と噛んだ唇は、覚悟。
忍足の紡ぐ言葉など、考えるに及ばない。
きっと忍足はわかっている。
誰が彼等を逃がしたか。
ともなれば忍足の訪いは、不敬を働いた白石への糾弾に他ならない。
如何なる罰が待つものか、白石にわかるはずもない。
けれど跡部の少女に向ける寵愛は深く、過去の女に向けていた情とは一線を画す。
なればこそ、処罰は免れまい。
袖に隠れた拳を、握り込む。
次ぐ忍足の言葉へと耳を傾けながら、けれど白石の胸に後悔はない。
それが、自らの決めた道であるが故。
忍足が訪れた時点で、もはや手遅れ。
逃げも隠れも、ましてや偽る気も元よりない。
伏した瞳の下、今一度拳を握った。
そして、広罹一の知将と呼ばれた男が、ようようと唇を開いた。


「自分、死ぬほど女に惚れたこと、ある?」

「………………は?」


聞こえた言葉は、あまりにも予想だにできぬもの。
思わず、振り返った。
噛み締めていた唇からは、先の緊張とは裏腹になんとも間の抜けた音。
火桶に手を翳しては揉み、翳しては揉みを繰り返す忍足は、予想に反し常より少し硬い顔付き。
寒くて堪らないとばかりに暖を得た手を頬や首に当てては、ほっと息を吐く。
少し青みを帯びた唇は、どうやら寒さに笑みを浮かべるどころではないらしい。


「は?やのうて。惚れた女とかおれへんの?」


漸く落ち着いてきたのか、火桶に手を翳してほぅ……と一息。
唇はまだ青ざめているが、先より頬には僅かな赤みが見て取れる。
察するに、この吹雪の中僅かなりと外に出たのだろう。
何の用向きがあったかは定かではないが。
六花の剣舞と見紛う天候の中であれば、ほんの四半刻(約三十分)も経てば肌が氷もかくや。
震えることもできず身を固めてしまうだろう。
となれば、ここまで忍足が暖を求めるも道理。
もしかしたら彼が白石の元に赴いたのも、自身の詰める座敷よりも近場であったからなのやもしれない。
もしそうであるならば、まだ少女を逃がした者が白石であるとは気付いていないのかもしれない。
自ら隠し立てする気は、毛頭ない。
けれど、進んで告げる心持ちがないのも、また事実。
ならばここは、常と変わらぬよう接するが吉であろう。


「なんや薮から棒に。妙なこと言いな。ちゅうか自分、こないな時分に外出たんかい。自分の氷像なんか誰も見たないで?」


出来るだけ平静に。
首だけを寄越した体制を体ごと忍足に向き直り、白石も火桶に向けて手を翳す。
冷えた手が高すぎる熱にじん……と痺れる。
苦笑混じりに揶揄ってみれば、忍足の眉尻が見事な八の字を描いてくれた。


「それがなぁ……跡部が御前様探しに行くゆうて聞かんねん」

「……は……?」

「こないな吹雪ん中、屋敷から出たらアカンやろ?せやから俺ら、必死で止めてん」


難儀やったわぁ……。
大仰に首を振ってみせた忍足。
その芝居がかった仕種は大袈裟であれ、しかし跡部が愚行に及びかけたのは偽りではないだろう。
でなければ、忍足がこんな悪天の中外になど出るはずもない。
芯まで凍えきった忍足自身が、その証明だ。
けれどなぜ、跡部はそんな愚行に出たというのか。
『御前様を捜しに』と、忍足は言った。
けれど、一歩巻かれれば忽ち前後を見失う猛烈な風雪の中、それはあまりにも無謀で無知。
あの聡明な跡部が、かような愚行に及ぶとは考えられない。
唖然と言葉を失う白石の心情を忖度したか、忍足の瞳が再び苦笑に染まる。


「こないな吹雪ん中、御前様が山に入ってしもぉてたらどないすんねん、てな。連れ戻すんは勿論、御前様の身が心配やってんな」

「……」


言葉が、でない。
声帯が、震えることを拒んだ。
絶句とはこういうことなのだと、身を以て知った。
何を、言っているのかと。
あれだけ彼の少女を苦しませた当の本人が、いったい何を、と。
目を瞠ったまま二の句の告げぬ白石を一顧だにせず、忍足が火桶に焙る手を裏返す。
ゆらゆら。
淡い朱に、陰影が揺れる。


「なぁ、もっぺん聞くわ。白石。自分、死ぬほど女に惚れたこと、ある?」


にこりと。
見慣れたはずの忍足の笑顔。
けれど今、白石の目に映るそれは違う。
常の彼が浮かべるそれとは、明らかに。
けれど白石がその差異を認識するよりも早く、忍足の瞳がふっと火桶へと落ちた。




→次巻


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