小説2

□清淡虚無
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【清淡虚無】

何故こんな事になったのだろう。
紀田正臣は生暖かな水蒸気を吸いきった頭でその疑問点だけを探究した。しかしやはりどう追い詰めても最終的な答えは「単なる偶然」だった。この現状が全て偶然だとしたら、彼の頭上に居る運命の女神は、相当な退屈を持て余し彼にこんな仕打ちをさせたのだと思う。
「着替え、置いておくぞ。」
曇り硝子の扉を隔てた向こうの空間から、低い声がした。聞き慣れない声に一瞬驚きながらも
「はーい」
と、非常にリラックスした声で正臣は返答した。曇り硝子から長身の男のシルエットだけが見える。シルエットだけでも彼の印象は実に解りやすい。スラッと長い足に太陽の粒子を反射させる金色の毛髪。彼の職業柄には全く適さないバーテン服。池袋に住まう者、何回か池袋に訪れた事がある者ならこの姿を見ただけで彼の名前が容易に思い出せるだろう。
「静雄さん、」
「何だ?」
「すいません、何か…お邪魔しちゃって…」
正臣は温かい湯の張った湯船に顎まで沈めながら言った。流石の図太王の正臣も、然程親しい間柄でも無い人間の家にあがり風呂場まで借りているという状況には緊張せざる得ない。それが女性であったら話しは全く別だが。しかもあの平和島静雄が相手だ。下手な真似をすれば此処まで無事に危機を逃れられた命を無駄にする事になる。仮にも黄巾賊将軍であった正臣はその危険を身に染み込ませているつもりだ。
「良いって、そんな気遣わなくても。」
しかし妙だ。何処かに違和感を感じる。どうやら自分は平和島静雄に大袈裟なイメージを抱いていたのかも知れない。
こうして彼の自宅で聞く彼の声は、ごく普通の穏やかな青年と全く変わらない。いつも池袋の街で自販機やらポストやらを平気で担いで怒りに身を任せて人間達を除け者にしている、喧嘩人形の異名を持つ平和島静雄とは誰の事なのだろう。そんな錯覚さえしてきた。

しかし、やはりあの時出会った彼は紛れも無く喧嘩人形の平和島静雄だったかも知れない。生憎、正臣にはその当時の記憶は曖昧だった。

―――

身体の中に浸入する人肉の不協和音。気の遠くなる否生理的行為。それでさえも日常の一つだった。正臣にとっては。
実を結ばない種を皮膚にばら蒔かれる事も、冷たい愛証を残される事も、無意味に唇を汚される事でさえ、正臣の頭と躯は拒絶しようとしなかった。否、拒絶しなくなった。
誤解を招かれそうだが、正臣には決して男に犯される趣味がある訳ではない。彼は何処までも女という生き物を愛して止まない。しかしその愛心は最早、愛というより願望に近い感情に成りつつあった。
己の立場と過去からはどうしたって逃れる事は出来ない。最初はほんの小遣い集めのつもりだった。それが此処まで日常に浸透してしまうと解っていたら、最初からやろうとも思わなかった。何て、それは何処かの麻薬中毒者も全く同じ台詞を吐いている事だろう。
「どうする?もう少し貢いでやればあと何回か追加してくれるらしいけど。」
「男だし、安物だと思っていたけど結構イけるしな。あと3回くらい追加で頼もうかな。」
はは、まいどありー。と悪態ついて言ってやりたいところだが、幾度も精液を飲み干した口は開いただけで生臭さが喉の奥から漂う。声を発する前に壁に頭を押し付けられた。
「い、…っう…」
男が相手だからと言って正臣を取り囲む連中は全く力加減をしない。体位を変える時も、挿入する時も動かす時も、愛玩人形で遊ぶ子供のようにただ力任せに扱うだけ。だからこうやって壁に頭を当てて後位をする時も、勢いよく壁と頭をぶつける。ガンッと鈍い打音がしたのだが、彼等は全く聞く耳持たず、目の前にある艶かしい正臣の躯に見入り、触れるだけ。
大丈夫、大丈夫だから。これも些細な日常なのだから。日常に一々腹を立てる事も、憤りを感じる事も馬鹿馬鹿しい。正臣はそう自分に言い聞かせ、瞼を静かに閉じる。
その直後に、日常のページが破られる事は予想もしなかった事だが。

「おい、何してんだ。」
その一声に、正臣は日常の亀裂を見た。自分の躯に触れていた浅ましい手達は一斉に離れて行った。池袋の男達を一度でこれ程の恐怖に陥れる事が出来る方法など限られている。正臣の薄らいだ意識さえ一瞬にして呼び寄せた。その男の存在感だけで。
「へ、平和島…しず…っ」
「やべぇ、逃げるぞっ」
男達は間抜けに喚き散らしながら一目散にその場から逃げ去った。静雄が一歩でも自分達に近付く前に。正臣はふと「あ、追加料金」と脳裏に浮かんだが、最早どうでも良く思えた。そんな事より自分もさっさと静雄から離れたいから。
恐らく彼は自分があの男達にリンチされていると思ったんだろう。夜遅くの路地裏はいくら池袋と言えど暗闇。まさか男が男にレイプされているとは普通考えつかない。面倒な事を悟られる前に正臣は素早く服装を整えた。
「大丈夫か?」
静雄は問い掛ける。気の抜ける程穏やかな声色で。
「だ、大丈夫です…お構い無く…」
服の袖口で口の周りについた精液を拭き取る。しかし静雄にはそれが切れた唇の血を拭き取っているように見えたのだろう。静雄は正臣の肩を掴んで顔を覗きこむ。
「見せてみろ。」
彼は優しく囁いているつもり。けれど正臣にはそれが世にも恐ろしい脅迫文句に聞こえた。全身の神経が彼を拒絶した。犯されても汚されても拒絶しなかった神経が。
「や、め…!」
腕を振り払おうとした。しかし手遅れだった。僅かな街灯に照らされた正臣の顔は動かぬ真実を模していた。髪の毛にこびりついた精液の塊、潤い過ぎな瞳に幾つもの涙の筋。静雄は何か不味い物を見たような表情をした。意外と解りやすい男だ。正臣がそう思ったと同時に静雄は肩から手を離した。
「状況解っただろ?もう俺には関わらないでくれ。助けてくれた礼は言うけど。」正臣が今まさにそう言おうとした瞬間、静雄が口を開いた。その口からは信じられない言葉が発された。
「とりあえず、うちに来い。」
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