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□梅の季節
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やっぱり、私の故郷は日本でしかあり得ない。
人気の少ないイタリアの田舎町を歩きながら、不意にそんな結論に辿り着いた。余りにも唐突な思考の終息に戸惑う。一体、どうして急にそんなことを思ったんだろう。
日本への想いは、考えれば考えるほど膨れ上がっていく。
石畳、石造りの家々、どこかから流れてくるチーズの焼ける香ばしい匂い。田舎だろうと都会だろうと、イタリアはイタリアでしかなくて、日本の代わりにはなれるはずもない。
考え事をしながら歩いていたせいかもしれない。はっと気がついた時には、駅まで戻る道が分からなくなってしまっていた。初めて来た町だし、地図も案内も無い。
石畳の上を転がしてきたキャリーバッグを椅子代わりにして、私は半ば意識を飛ばす様にして腰掛けた。
暫くそうしているうちに、さっきの謎が解けた。
どうして、私の中で急速にノスタルジーなんてものが生まれたのか。
そのきっかけを作っていたものが、今私の頭の上にある。
塀を超えて、道に張り出す様に枝を広げる無骨で黒い木。けれど、枝の先は細く、滑らか。
そして、その枝の至る所に散らばる白い――――――梅の花。
控えめな香りが、それでもイタリアの町の匂いに紛れることなく香っている。
その香が、私の実家に植えてあった梅の木を、そして私が生まれ育った日本の小さな町を想起させたのだ。
白くて小さい花を見ていると、縺れた糸が端からスルスル解けていくように記憶が蘇ってきた。
西洋風の街並みに合わないようで馴染んでいるこげ茶の木の塀。その向こうの家は塀に阻まれて見えない。
梅の花が、趣のあるその空間に絶妙にマッチしている。
その時、塀の上にひょこりと黒髪が覗き、
「ねぇ」
涼やかな声が降ってきた。
一番最初に気がついたのは、それが日本語だと言うこと。たった一言で、意味もほとんど無いような言葉なのに。発音や、抑揚、そのほかの何もかもが懐かしい日本の音で。
自然と笑みが零れた。
見上げると、艶やかな黒い髪、眼。白い肌。目鼻立ちが整っていて、声と同じく、涼しげな印象を受ける。
日本人、だと思う。日本人形のよう、とでも言えば良いのだろうか。眉をひそめていう今でさえ人を引き付けるものがある。
辛うじて見える襟元から、黒い浴衣を着ていることが知れた。
形の綺麗な唇が細く開かれる。
「君、さっきから何してるの?」
「私ですか?」
「君以外にだれがいるって言うの?」
浴衣の人は、至極不機嫌そうに通りを指した。彼の言う通り、まだ日が高いのに人っ子一人いない。
「梅の花を、見ていました。懐かしくて。」
「そう。じゃあ、見終わったら早く帰ってよ。」
ぶっきらぼうにそう言って、浴衣の人は頭を引っ込めようとした。
「あの…!」
「何?僕は今機嫌が悪いんだ。手短にして。」
「この梅、また見に来てもいいですか?」
「嫌だ。」
間髪いれずに拒否して、浴衣の人は続けた。
「君みたいに弱そうな奴を見ていると、苛々して、咬み殺したくなる。だから、もう来ないで」
言いたいことはそれだけ?だったら早く帰って。
そう言って、浴衣の人はすっと塀の向こうに沈んでしまった。
随分と好き勝手なことを言われてしまったな。初対面で「弱い」「苛々する」なんて言われたのは初めてだ。
失礼と言うか、素直と言うか…ともかく、今まであったことの無いタイプの人だった。
でもまあ、仕方のないことだ。人には合う、合わないがある。 これから会うこともないだろうし、あれこれ思っても詮無いこと。
よいしょ、とキャリーバッグに乗せた腰を落ち着かせ直す。
もう来るな、と言われたし、この梅は今のうちにしっかり目に焼き付けておこう。雰囲気も。
そう言えば、早く帰れとか言われたような気もする…まあ、いいか。見ているだけだし。
すぐ後ろを、まだ小さな子どもたちが走りぬけていった。まだ幼いその声も、やっぱりイタリア語だった。