あるヘンゼルとグレーテルと、
□誘う魔力と、
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妹は、自分がとても居心地のいい空間にいることに気がつきました。温かくて、パンの焼ける香ばしい匂いがして、お湯の沸く音がしています。
瞼の裏に温かな光を感じながら、まだあまり役に立たない目を開いてみます。
そこは、家の中でした。
不可解なことばかりですが、確かにさっきの家の中にいるのです。
妹のすぐ足もとで、兄はさっきドアノブに触れた方の手をまじまじと見ています。
痛むのだろうか、と妹が隣にしゃがみこんだ時でした。
「う”ぉ”ぉい、何やってんだぁ…クソガキどもがぁあ”」
低い、怒気を孕んだ声に二人はぱっと振り向きます。
大きな人でした。兄よりももっと大きくて、頭一つ分ほどの差があります。膝まであるフード付きのマントを纏い、その下からは様々な金具の装飾具の付いた黒い革製のブーツが見えます。そして何より妹の目を引き付けたのは、腰まであろうかと言う、その長い長い髪でした。色素はほとんどなく、暖炉の光を受けてオレンジがかって見えます。
細く眇められた目と全身から放たれる威圧感に押されて動けなくなっていた妹ですが、ここで漸く自分の役割を思い出しました。
そうだ、この人に理由を説明しなくちゃ。理由はどうあれ勝手に家に入ってしまったのはいけないことだし、今晩泊めてもらえるようお願いもしなくてはなりません。何故なら、兄にはそんなことはできないから。ちらりと横を見ると、さっきの約束をまだ覚えていた兄は大人しく黙っています。
私がやらなきゃ!!
使命感めいたものに突き動かされ、妹は緊張と焦りに飲み込まれそうになりながらも口を開きます。出てきた声は僅かに裏返り、幾分弱弱しいものでした。
「ご、ごめんなさい、私たち勝手におじゃましてしまうつもりはなかったのですが、」
「てめぇかぁ?ドアノブ触ったのは。」
話している最中に、マントの人が遮りました。片方の眉を上げ、怪しいものでも見るような眼で見ています。
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながらも妹が口を開く前に、黙っている筈の兄が先に言葉を発していました。
「そいつじゃねーよ。触ったのは俺だぜ…魔法使いのオッサン」
魔法使い。妹は耳を疑いました。
絵本の中でしか見たことの無い、魔法使い。皺皺のお爺さんかお婆さんで、腰は曲がり、鉤鼻で、しわがれた声でイヒヒと笑う、魔法使い。箒に乗って空を飛び、杖から光を放ち、子供たちを食べてしまう魔法使い。
でも言われてみれば、長いマントや装飾具はいかにも魔法使いが持っていそうなアイテムです。それにこの人が魔法使いなら、さっき自分たちが家の中に吸い込まれたことも納得がいく気がします。
魔法使いと呼ばれたマントの人は口の端を上げ、ほうと声を洩らします。そしてどことなく楽しそうに目を細めます。
「よくわかったなぁ、小僧」
「ししっ、あんたのことはよーく知ってんぜ。だって俺、王子だもん」
兄の手が優雅に上げられ、柔らかな金髪を飾る銀のティアラを指しました。
それを見て魔法使いはますます楽しげに口を歪めます。
次の瞬間、兄の両足が地面を離れ、宙に浮いていました。魔法使いの大きな手が兄の柔らかな髪をぐしゃりと掴み、片手で持ちあげているのでした。兄の顔が痛みに歪みます。
いつの間にか真横にいる魔法使いを見上げ、妹は小さく悲鳴を洩らします。
そんなことは気にもかけずに、魔法使いは目の前に晒された兄の白い喉を確かめています。「紋はねえなぁ…」と呟きながら。
兄の手がそろそろと持ちあがります。いつものナイフが数本、鮮やかに現れます。魔法使いはまだ気付いていないようです。ナイフを持った手が、手首を反らします。
「…死ねよ!!」
いくら体勢が悪かろうと、ナイフの扱いに長けた兄がこの距離から的を外すわけがありません。ナイフはまっすぐに魔法使いの心臓めがけて飛んでいきます。
妹は咄嗟に目を瞑りました。
「な”っ?!」
カランっカラカラ…
硬質な音と、兄の声。妹は恐る恐る目を開きます。
見えたのは、さっきと寸分たがわぬ光景。魔法使いは相変わらず不敵に笑っていて、兄は苦しげに、そして悔しそうに歯を食いしばっています。
ナイフは、床でピクリともせずに横たわっていました。そしてその床には、先程までは無かった筈の紋が浮かび上がっていました。淡く発光するそれは円と五芒星と記号の組み合わされた、とても複雑な模様でした。そして兄妹は知りませんでしたが、その模様はドアノブに刻まれていたものと全く同じで、一般的にはペンタルクと呼ばれているものでした。
「ハン、無駄なことはやめとけぇ。ここは俺のテリトリーだぁ。」
そう言った魔法使いの言葉に呼応するように、床の模様の光が強まります。それとともにその場の重力が弱まったかのような浮遊感。
今やこの部屋中の全ての物が魔法使いの味方で、兄妹は二人きりです。しかも魔法使いは、滅法強い兄よりもずっとずっと強いのです。
妹は全身の力がどんどん流れだしていくのを感じていました。
でも、兄を救うことが出来るのは、妹の自分だけなのです。
妹は急いで周りを見回しました。
その間にも、魔法使いは兄の首回りや手首を丹念に探しまわっていました。
「てめぇが王族なのは確かなようだが…と言うことは、まだクソ王が生きてるってことかぁ…?」
「離せよ、離せって!!」
「う”ぉぉい、暴れんなぁ」
見つけました。妹は、魔法使いに気付かれないように、そっと動きました。そして小さな手で、壁に立てかけられていた物を取ります。
それは、どこにでもありそうな箒でした。幾度も掴まれた柄はすべすべと滑らかに掴みやすく、それなりに重みがあるにもかかわらず妹の手によく馴染みました。
魔法使いに立ち向かうには、余りに頼りなさ過ぎる武器です。けれど、もしかするとこれはとてつもない武器かもしれない。何と言っても、これは魔法使いの箒なのです。
妹はきゅっと両手で柄を掴み直し、息を殺して魔法使いの背後に回り込みます。魔法使いは暴れ続けている兄に気を取られているのか、後ろは見向きもしません。
妹の心臓は、外にまで音が聞こえるんじゃないかと思うほど激しく乱れ打っています。
でも、逃げることはできません。いつも助けてくれる兄を、今度は自分が助ける番です。
妹はかたかたと震える指で柄を握りこみ、息をお腹の底に溜めます。そして、きっと良い武器になってくれるはずの箒を大きく頭上に振り上げ、気合一閃、一気に振り下しました。
「っやぁあああああああ!!!!」
鈍い衝撃と撲音を覚悟していましたが、振り下した箒は空中でぴたりと静止しました。何の衝撃もありませんでした。妹は何が何だか分からず、動かなくなってしまった箒を押したり引いたりします。びくともしません。
魔法使いは妹の方は見向きもせずに、喉の奥で笑います。
「クク…聞こえなかったかぁ?言ったはずだがなぁ、ここは俺のテリトリーだと」
「…離せ」
「あ”?」
「お兄ちゃんを、離せ」
意志のこもった、真っ直ぐな目でした。