ワンダーランドキャパシティー

□EVERYTHING
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 時は前1世紀、アレクサンドロス大王により統一されたギリシャ、ペルシャはヘレニズム時代に入り、文化や学問が急速に発展しつつあった時代。

 地中海周辺では、ローマがカルタゴを攻め落として以降次々と地中海周辺の諸国を支配下におさめ、強大な帝国を築き上げていた。

 当時ローマ市内では絶え間ない内乱の混乱が続き、有力者は「パンと見世物」で市民の人気、つまりは権力を握ろうと凌ぎを削りあっていた。






 ローマ市では、属州(支配下に置かれた国)からの物産が溢れ、盛んに市が催されていた。
 威勢の良い客引きの声、高い、安いの言い合いの声、はたまた些細なことをきっかけにしょっちゅう勃発する人目を憚らない取っ組み合いの喧嘩。喧騒に紛れて手癖の悪さを働く者もいる。

 そんなローマの市を、一人の青年が不機嫌そうに歩いていた。上等な装束により、一目で騎士階級の者だと分かる。周囲の者には目もくれず、時折、道を塞ぐ群衆に舌を打ちながら歩を進める。何だと思って彼を睨む者もいたが、彼が騎士階級の者だと分かるとすぐに目を反らした。

 彼の数歩後ろを、従者と思しき人影が追っていた。彼らは気付いていないが、彼らの存在もまた、青年の不機嫌の一因であった。

 ある店の前で青年が足を止めた。続いて従者たちも慌てて従う。青年は険しい表情を一切崩さずに、暫く店の前に立ち尽くし…もう一段階眉根を寄せ、店内に入って行った。後に残された、入店を許されていない従者たちは、遮るもののないローマの夏の日差しを浴び、ただ主人を待つのだった。






 二日前のこと。この日も同じ青年が、同じ店の前で足を止めていた。

 この日彼は、有力者である父の使いで行った元老院(国会のような所)からの帰途であった。

 ただでさえ彼は元老院の面々と折り合いが悪かったが、あの場でディーノに会うことがなければ、もう幾分ましな気分でこの道を歩いていただろう。

 ディーノと言うのは彼の父の政敵の息子であり…いや、そんなことは些細なことだ。彼がディーノを嫌うのに理由はない。ただ昔から嫌いだったというただそれだけのことだった。

 そんな訳で頗る不愉快だった彼の耳に、突如凛と張った声が飛び込んできた。



「何でも」



 左程大きいわけでも目立つわけでもなかったその声は、聞いた所少女のもののようだったが、喧嘩を売るような物腰は少女と言うより寧ろ年頃の少年のようだった。

 青年は立ち止まり、声の発せられた店を見つめた。一見民家のようにも見えるが、気をつけて見れば、奴隷を専門に売買する店。当時ローマではごく一般的に人身売買が為されていた。

 青年は注意深く耳を傾けていたが、続いた声は低く、店の外からでは雑多な喧騒に紛れ聞き取ることが出来なかった。

 暫くして、店から客が出てきた。それに続き店主も顔を出し、慇懃に見送る。

 客が店から離れてしまうと、店主は笑顔をひっこめ、くるりと踵を返した。その時、店主の目にじっと立ち尽くしていた青年が映った。



「旦那、今日は当たりの日ですよ。少しご覧になりませんか?」



 何とか客を捕まえようと盛んに話していた奴隷商だったが、青年が自分の後ろの従者を指して、これ以上必要ねぇ、と告げるとあっという間に諦め、さっさと店へと姿を消してしまった。

 青年が再び歩き出そうとした瞬間、同じ店から鈍い音が聞こえてきた。人が、殴られる音。珍しいことではない。奴隷商なのだから、なおさら有りがちなことだ。大方、さっきの客は何も、つまり誰も買わず、店主が売り物に当たっているんだろう。とすれば、あそこは大した店ではない。売り物に傷を付けるなど、店の格を自ら落としているようなものだ。

 青年は長く立ち止っていた場所から、漸く歩き始めた。その最初の一歩を踏み出した瞬間には、既に奴隷商のことなど頭から綺麗に消え去っていた。そして彼の記憶にその日のことが上ることは、二度と無かった…



 筈であった。










「おい」

「あ”?!何だぁ、クソ親父がぁ!てめぇが元老院に顔出したくないからって俺を行かせんじゃねえぞぉ!ちったあこっちの身に、」

「てめえの召使いを買って来い」

「…は?」

「何突っ立ってんだ、このカスが…2度も言わせる気か?」

「召使いならもう足りてんぞぉ」

「何を勘違いしている。ありゃあてめえが何かしでかした時の為に付けた監視だ…次兄のてめえに継がせる気がねえが、余分なことされっと目障りだからな」

「…」

「分かったら失せろ、このドカスが」






 夕食の席で父親にそう告げられた時、青年の頭に浮かんだのは昼間の奴隷商のことであった。

 大した店ではなかったし、吹っ掛けられることはまず無いだろう。あの奴隷は、既に買われてしまっただろうか。

 彼は無意識のうちに、あの声の主を買おう、と決めていた。



 
 

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