ワンダーランドキャパシティー
□SILENCE
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青年が自宅へ辿り着くと、まだ戸もくぐらないうちに甲高く彼を呼ぶ声が響いた。
「スクアーローっ!!!」
野太い、いや黄色い、いや寧ろ野太くて黄色い声。耳に障る声に青年は顔を顰める。スクアーロ、と言うのが青年の名であった。
「もう、スクアーロ!帰ってきたら『ただいま』くらい言いなさい!!」
「うぜぇ」
そして、小言を言いながら戸口に姿を現したのがルッスーリア。話している言葉だけ聞けばスクアーロの母親のようだが、生物学上それはあり得ないことで…ルッスーリアは第三の性、端的に言えば、オカマだ。彼…彼女はスクアーロの家の家事全般を任されているが、奴隷と言うわけではなく、歴としたローマ市民である。
「もう!そんな口きいてると、いつか口が腐っちゃうんだから!」
「んな簡単に腐ってたまるかぁ!」
「お黙り!口答えする暇があるならもう少し言葉づかいを勉強なさいな!」
そして雇い主の次兄であるスクアーロに対してもオカン気質を発揮できる、唯一の人物でもある。
スクアーロの本物のオカンは遠い属州のどこかに住んでいる。スクアーロはまだ会ったことが無し、恐らく一生会うことはないはずだが、寂しいなどとは微塵も思ったことはない。見たこともない母を恋いしがるなど、土台無理な話だ。
これ以上の言い争いは無意味だと悟り、スクアーロは戸口で通せんぼしていたルッスーリアの脇をすり抜けた。
「こら!待ちなさい!…あら?」
そしてスクアーロに続いて戸口をすり抜けていった少女に、ルッスーリアはスクアーロへの小言を引っ込めた。
会釈を、されたような気がする。一瞬すぎて分からなかったけれど。
少女は大股で遠ざかって行くスクアーロの後ろを駆けるように追い、すぐさまルッスーリアの視界から消え去った。
「…今晩のご飯、もう一人分要りそうね」
* * *
スクアーロは自室に着くなり、長い体を長椅子に放り、目を瞑った。
人ごみは嫌いだ。どうしても好きになれない。人々が好き好んで市場に集まりたがる理由が全く理解できない。
理解できないと言えば、父親の発言の真意もいまいち掴めない。喧嘩っ早く、度々問題に巻き込まれてきたスクアーロだから、監視をつけられていたのには納得できる。ならば何故今になってその枷を外そうなどと思うのか。
…ああ、めんどくせえ。どうでもいいか、親父が何考えてようと、俺の知ったことか。
考えんのは、元老院と同じ理由で、同じ位嫌いだ。まどろっこしくて、結論が出ない。
スクアーロはそれよりも、何も考えずに体を動かすことの方を好んだ。寄ってくるものは斬ればいい。来なければ、斬りに行けばいい。結論だって、斬るか斬られるか、殺すか殺されるかの単純明快な二択。こんなにすっきりとした世界こそが自分の世界。
そうだ、剣を振りに行こう。食事まで時間もある。
スクアーロが目を開くと、木目の模様が視界一面に広がっていた。目を見開いたスクアーロは、一瞬の後にそれが水を並々とたたえたカップだと気がついた。
スクアーロの顔の前にカップを突き出しているのは、今日連れてきた奴隷の少女。今日も今日とて暑く乾燥した日だったから、気を利かせて用意したのか。なるほど、「何でも」出来ると言ったのは満更嘘ではないらしい。
しかし、いつ、どうやって用意したのだろう。まだコップや井戸の場所も教えていないのに。
首を傾げるスクアーロに、少女がこの家に来て初めて口を開いた。
「クラスファリスって男の人がそこでくれた」
…何だ、昨日までの召使いが気を回してやがったのか。別に俺は構わないが。アイツに期待したのは無駄だったな。
スクアーロは元召使いが用意したと言うコップに手を伸ばした。
「だめ」
目を丸くするスクアーロの前で、少女は何の躊躇いもなくカップを窓から放り投げた。見事なフォームで豪快に飛ばされたカップは、いくらか中身を零しながら庭の茂みに消えた。少女はそれを無表情で見届け、何事もなかったかのようにスクアーロの傍に控えた。
「う”ぉぉい、てめえ何考えてんだぁ」
スクアーロが尋ねると、少女は小さく首を傾げ、微妙な沈黙を空けてからぽつんと問い返した。
「飲みたかったか?」
「あ”ぁ。何故それを放り投げた?」
幾分棘の含まれた声に、再び少女は首を傾げる。
「主(あるじ)は、静かなのが好きか?」
「…あ”?」
「それなら、悪いことをした。謝ろう。クラスファリスにもう一度あれを貰ってくる。」
扉へ向かおうとする少女は、腕を掴まれて怪訝そうに振り返った。
「待てぇ、どういう意味だぁ」
「私が主から取ってしまったものを、もう一度貰ってくる。主の、『沈黙』。」
じっとスクアーロを見ていた少女が、掴まれた腕にふっと視線を落とした。
「これだと取りに行けない」
「俺の…沈黙?」
「主のベラドンナ。主の、ドク。」
「…ふざけんじゃねえ」
ぎりぎりと腕を締め付けられても、少女は眉一つ動かさずに淡々と口を動かした。
「ベラドンナ。花言葉は『沈黙』。強い毒性。美しい人、という意味。」
「俺が毒を盛られたって言いてえのか」
「私が飲んで見せればいいか?」
首を傾けて尋ねる少女に、スクアーロは掴んでいた腕の力を抜いて解放してやった。そして顔を背けて、
「…悪かったなぁ」
「どうして主が謝る?」
「てめえに助けられたからだ」
「主は、沈黙が嫌い?」
「ああ」
「私は、良いことをした?」
「した」
短い返答を聞いた途端、少女はうっすらと薄い笑みを浮かべた。よくよく気をつけて見なければ殆ど分からないほど小さな表情の変化だったが、間近で見ていたスクアーロにはよく見て取れた。
「良いこと。」
「ああ」
「良いこと。」
「…ああ」
「良いこと。」
「…」
しばらく続いた沈黙の後、少女が微かに口角を上げたまま尋ねた。
「主は、私が飲み物を用意したら嬉しいか?」
「ああ。喉が渇いた」
「沈黙?」
「…水。」
駆けだした少女に、期待と不安、両方を孕んだ視線を投げて、スクアーロは椅子にかけなおした。