スクアーロ短夢
□未開拓地領域、A
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「またやってんのかぁ」
かたりと筆を置いた瞬間を見計らってかけられた聞き慣れた声。
スクアーロの存在を全く察知していなかった私は物凄く驚いて、その拍子に動いた手が硯に触れる。黒く色づく指先。爪の間に入った墨は落とすのが厄介だ。スクアーロが苦笑する。
だけどその驚愕に、私は胸を撫で下ろす。
良かった、スクアーロに気付かなかった。まだここは、私の領域。
そんな私を見て、苦笑を引っ込めたスクアーロは微妙な表情。そりゃあそうだ。暗殺者として侵入者の気配を察知できないなんてもう終わっている。お説教が来るかな、と思ったけど、スクアーロは何も言ってこなかった。
別段用事があって来た訳では無いらしかった。ベッドの端に適当に腰を下して長い脚を組んだ奴は、恐らくレスポンスを期待している。
けど、しない。
立った今書き上げたばかりの作品を新聞紙に並べる。さっき書いたものに比べ動きが付いたそれに、少しの満足。筆運びが荒くなったのは気になるから、次は気を付けないと。そうだな、もっと一行目の色を消した方がいいかも。紙を換え、筆に墨を付け直す。
筆を運ぶ間、私の自我は消失する。だから書き終えた時、真横にスクアーロがいることに気付いてまた驚愕。そして安堵。
でも、今度はその表情に私の中の何かが警報を鳴らす。だめ、スクアーロ、何も言わないで、反応しないで。いつもみたいに「訳わかんねぇ」って顔で、紙と墨の世界にのめり込む私を馬鹿にしてよ。
スクアーロは何も言わない。まだ墨の色も生々しいそれを、ただ見ている。
「どう思う」
何て馬鹿なんだろう、私は。知りたくなければ聞かなければいいのに、どうして尋ねてしまうの。
もしスクアーロの存在が、私すら入る余地のない紙と墨だけの世界に割り込んでしまったら。私の中の譲れない一点、唯一スクアーロに占められていない部分は死んでしまう。
そしたら私は、ただのメクラ。
身体も心も命も、寄越せと言われたらいつでも差し出そう。
全部スクアーロに明け渡してしまった私だけど、これだけは譲れないの、あげられないの。
顔を上げたスクアーロは平生の彼を疑いたくなるほど穏やかな表情で、微かに口の端を引いた。少し言い渋って、沈黙を私に期待させる。
でも、スクアーロが欲しい時に欲しいものをくれることなんて滅多に無いのだ。
「さあなぁ。コッチはさっぱりわかんねぇよ」
まず、何書いてんのか読めねぇし。白と黒ばっかで違いがわかんねぇし。
そう貶す割に、言葉の端々が柔らかくて。いいよ、もういいから、何も言わないで、言わないで!!
「でもまぁ、作業してるてめぇを見んのは嫌いじゃねえけどよ」
「…は?」
「…聞き返してんじゃねえよ」
逃げるようにさっきの定位置に戻るスクアーロ。この時初めて、スクアーロがとても近くにいたことに気が付いた。
さて、どうしたものか…
これから先、スクアーロの前で平然と紙に向き合えるか、自信が無い。
そうなったら、本気で心中でも考えようか。
そんな考えはおくびにも出さず、私はまた墨汁の海に筆を沈める。
未開拓地領域、A
フロンティア、崩壊寸前。