スクアーロ短夢

□未開拓地領域、B
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 一歩、目に見えない空気の層を突き破る。瞬間肺を満たす独特な香り。それを形容する術は知らないが、正体は知っている。

 今日天音には任務が入っていない。だからきっと部屋にいるだろうと、『書』と言う奴に取り組んでいるだろうと思った。そして案の定。



 天音に関して言えば、俺の予測は外れない。外れなくなったと言うべきか。



 天音は俺が入ってきたことにも気付いていない。視野には入っているのに認知していない。いつもの事だからそれをとやかく言うつもりは無い。だからと言って何も感じない訳ではない。

 本音を言えば、いつものように反応が欲しい。





 この頃天音はめっきり趣味が減った。趣味で片付けられない程熱中していたものにも、以前ほど興味を示さなくなった。

 例えば、最近の天音は滅多にカンバスに向かわない。たまに画材を広げているのは目にするが、以前のように無視されることは無い。俺が近寄れば、声をかける前に当たり前のように振り返って、当たり前のように広げた道具を片付け出す。

 歌も、食べ歩きも、映画も、意味不明な数式いじりも、あいつの中では全部俺より下位に位置するようになった。

 初めのうちは、そうしてあいつの中の優先順位が変動する度に優越感を覚えた。あいつの中でも俺の比重がどんどん増えていると、必死に相手を見てんのは俺だけじゃないんだと。

 それでも次第に、違和感に気付き始めた。

 疲れたから、と歌声を収める天音。気になるお店が無いの、と出かけなくなった天音。どうせもう使わないし、とDVDプレーヤーをベルにやってしまった天音。何やってるか分かんなくなっちゃった、とびちびちに数字を書き並べた紙を丸めて捨てる天音。

 そのどれもを見逃せるほど、適当な精度で天音を見ちゃいなかった。全部見えていた。そう言う時、あいつは決まって寂しそうな顔をするのだ。俺に見せないように、嘘くさい笑い方で隠しながら。



『アイツ、もう駄目だよ。』



 つい昨日、ベルがそう俺に零した。俺と違って目の肥えたベルは、よく天音の絵やらを見ては感想を言ったりしていた。そのベルが、もうアイツは駄目なのだと言う。

 非難がましく俺に言ったベルも、適当に目を逸らして誤魔化した俺も、原因が俺にあることくらい分かっていた。

 本当は、今だって天音の部屋に来るべきではないのだ。分かっているくせに、俺の自制心は全く役に立たない。ガキみてぇに纏わりついて、今すぐ視界を奪ってしまいたい、占領してしまいたい。

 そう言えば、きっと天音は少しだけ困ったように笑って、それでも即答で「いいよ」と言うだろう。

 俺の予測は、外れない。外れなくなった。それは俺がアイツを知ったからではない。アイツが目には見えない速度でゆっくりと、俺の望む姿に変わってきたから。

 俺の虚像と天音、ぴたりと重なった時何が起こる?その時天音の中に、オリジナルの天音はどれ程残っている?

 どうせ答えは出ないから、これ以上は考えない。

 そら、天音が筆を上げた。もうすぐ天音の耳は俺の声を受け入れる。筆から手が離れた瞬間がスイッチだ。
 


「またやってんのかぁ」



 大人っつってもこんなもんだ、なんて自分の幼さを嗤ってみたり。



未開拓地領域、
消えてくれるな、とあべこべな願望を抱く

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