その他長編

□左失 いとまごいのその先
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ぎゅうぎゅうに抱きしめられるのが、気恥ずかしくも心地よくもあった。
耳元まで上がってきた心臓へ必死になって収まれと念じた。


この人はこんなにも大きかっただろうか。薄れてしまった記憶を辿って、彼の背中を思う。

そうだ、いつも三歩後ろに歩いていたから小さく見えたのだ。


すうと息を吸えば彼の香りがすぐわかる。それにうっとりと目を細めてから、慌てて頭を振った。
なんてふしだらな。そう言って怒られてしまう。

だが、いつまで経ってもそれはない。
顎の下にある彼の肩は、いつになっても離れて行く様子はなかった。


あんなに肌を合わせるのを嫌がっていたのに、今日ばかりは全く平気だなんて。
ずっと望んでいた状況のはずなのに、今はどうしてか一刻も早く逃げ出したいような気がする。

どうしようもなく恥ずかしくなって、名前を呼びかけようと口を開きかけた。

そして、言い淀む。
何て呼ぼうか悩んだ後、結局以前の物と同じ呼び方に落ち着いた。


「幸村」

「はい、何でござろう」


少し後ろの上から返事が聞こえる。

そこでやっと、呼んだは良いが何を言うかを全く決め手無かった事に気が付いた。ええと、どうしよう。


素直に離れてくれとはとてもじゃないが言えまい。しかもそれが、ただ私の羞恥だとしたら尚更。

幸村は依然として私の背中に腕を回したまま、私が言葉を紡ぐのを待っている。
なにか、喋らなければ。大きく息を吸う。


「幸村、いい匂いする」


うっかり、本音が出た。
何か言わなければとは思っていたが、こんな変態じみた台詞じゃない。

しかし、体は私が望んでいたようにべりりと剥がされ、私は首まで真っ赤にした幸村と目を合わせる事になった。
口をパクパク開け閉めしたりして、相当混乱しているのだろう。

自分の所為だとは思いながらも、いつ破廉恥が出てくるかと身構えた。
今、息を吸う。


「はっ」


最初の一言で、彼は自分の手で口を塞いだ。
幸村の大きな目はきょろきょろと辺りを見回している。

そして、勢いよく立ち上がったかと思うと、彼は玄関から走り去ってしまった。


「……え」


どこいったの。
渇いた私の声が部屋にポツリ落ちる。
ふわりと幸村の残り香が鼻をくすぐって、胸がきゅうと締め付けられた。


いやいやいや、胸なんか締め付けられてる場合じゃない。


幸村は外に出て行ってしまったのだ。
もしかしたら不審者と間違えられるかもしれない。それはまずい。

大慌てになりながら素早く着替えを済ませ、スニーカーに足を通す。
しばらく入院生活で体を動かさなかった所為で、すべてがすべて億劫だった。


重たい体に鞭打ちながらドアを押し開ける。もうすり抜けることは無い。

左右に広がったアパートの廊下を見回して、少しでも幸村を追いかけるヒントを探した。


「え?」


思わず気の抜けた声が漏れる。目線の先にある表札から目が離せない。
その表札の部屋の持ち主であるお隣さんは確かに先月引っ越していて。まず第一に名前がちがくて。

達筆な文字で書かれた真田と言う二文字に、思わず固唾を飲み込んだ。


「幸村……?」


違う人だったら怖いと思いながら扉をたたく。
しばらく耳を澄ませ小さく聞こえてきたのは、幸村の小さな返事だった。


そして私のお隣さんは、仲良しな夫婦から好きな人に変わったのだ。
左腕を取り戻した私と、今まで欲し続けた彼との生活が、やっと始まる。




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