能ある鷹は愛する獲物の為に爪を斬る

□サイン会、始まる前。
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がやがやと騒がしいドアの外。実際はドアの外のもっと先が騒がしいのだろうけど。
それはつまりこの部屋の外には人がたくさんいるという事で。

やばい非常に逃げたい。

だがしかし、動けない。
ぎゅうぎゅうに縛られた自分の縄をどうにかしようともがくが、一向に動けない。


そんな、午後三時すぎ。


「神原君」

「なんですか?」


和室のほんのりと井草の香りが漂う中で、あたしは何度目かの溜息をつく。
名前を呼ばれた彼はペットボトルの緑茶を片手でもてあそんでいた。

もはや溜息どころではなくなった吐息を零し、神原を睨む。
お前の所為だぞ、これ。


「解いて」

「いやでーす」


両手両足の自由はない。このすずらんテープは彼が縛ったものである。
追記するが彼にそんな趣味はない。あたしにも無い。

ただ、彼がこうする理由は確かにある。


今日はサイン会の日。あたしが先日書き上げた小説の発売日でもある。
小説家をやっているあたしは、当然の義務だといわれんばかりに今日ここへつれてこられた。
もちろんこういうイベントをあたしが嫌がるのも彼は熟知の上である。

昨日までそんな予定かけらも聞いていなかったのに。
これも全て隣に座るやつの策略だ。済ました顔して胡坐をかくこいつ。


あたしの担当編集者神原。とても意気地が悪い。
現にあたしが嫌がる中このサイン会まで連れてきて、挙句縛り上げるのだから。
許さんぜよ。神原。


「もう逃げないったら」

「はいはい」


さっきから何度この問答を繰り返しただろう。着物まで着せられて動きづらいったらない。
そしてなにより食い込むすずらんテープが痛い。なんだこれ。
だが彼は返事はすれども解くつもりは毛頭無いようで。勘弁してくれ。

じんわりと汗ばんでくる全身に、顔の化粧が落ちかかっているような気がした。
帯びのあたりが蒸れて気持ち悪い。


「のど渇いた」

「はいどうぞ」


両手が自由じゃないとならないだろう行為を要求すれど、あたしの思惑は筒抜け。
にこりと笑った彼はすずらんテープに触りもしなかった。
体の前で拘束された両手のなかに渡されたペットボトル。

彼がそれを開けるのを見ながら、あたしはふと部屋を見回す。
神原が飲んでいるのを除いたら、これが最後の飲み物だ。となれば。

あたしはそれを口にあて、半分以上残っているお茶を飲み干せばいいのだ。


ごふ、ごふと喉が変な音を立ててお茶を流していく。
大分ぬるくなっているお茶は一気に飲めるほど美味しくはない。

それでもこの状況から脱するために、多少の犠牲を払うことは厭わない!


「がふぅ!」


それがたとえ、成人女性にあるまじき態度であっても。


「足りない」

「うそぉ!」

「買って来い」

「まじですか」

「大まじだ」


だから早くと急かし、慌てた彼も急いで立ち上がり靴を履き始めた。
しめしめ。思惑通りに運びそうな状況に頬を緩める。

ここらへんにはなさそうな、少なくとも会場にはないだろうジョージアのミルクコーヒーを頼めば。
あたしの作戦はばっちりなのである。


一人きりになった部屋。ばたんと閉じた扉と、その向うを走っていく神原の足音をしっかり聞く。
すかさず手首のすずらんテープをはずそうと試みる。

体の前にあるのが幸いだった。目でしっかり見ながら手首の拘束をはずし始める。
ちょっとばかし赤くなり始めている肌を気にしながら、丁寧に動かして。
何重にも撒かれたそれを、一本また一本ずつはずして緩くなったそれから一気に開放された。

あたしの勝利だ。


そう確信して足首の方に取り掛かる。両手が自由になった今、あたしに不可能なことはない。
ばさばさと邪魔っ気な袖を避けながら、あたしは今完全に自由を手に入れた。

っしゃい! 密かにガッツポーズをして、いざ狭い楽屋から脱出する。
廊下の左右を如才なく確認して、着物に併せた桐下駄を履いてからんころんと駆けた。
ちょっと目立つけど、このまま家に帰ろう。そして布団に直行だ!


ふははは、と心の中で笑う。顔は至って真面目のはずだ。
外に出る扉はどこだろう。あまり騒がしくないところを選びながら進む。
ううん、同じような景色が続いているような気がする。だがあたしならできるはずだ。

さあ、この目の前の扉を開けてアイキャンフライ!
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