犬も歩けば棒に当たる。…私は何に当たる?

□酒乱と保護者と酒乱
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カタカタと音がする。キーボードがあたしの指に叩かれる度に喚いた。
痛そうだとかは思わないけど。とにかく早く動けと念じながらあたしはキーを叩き続けた。

あたしが仕事に勤しんでいる時にあたしの担当編集、パートナーとも呼べる存在の彼が。名前をなかなか覚えて貰えないことに定評がある、神原がお茶を嗜んでいた。
ほんのりと鼻を擽る緑茶の香りが、あたしのイライラを更に増長させる。茶柱が歯の間に挟まってしまえばいい。


そんなこんな。あたしの頭は只今複数の思考を同時進行させていて、今にもどれか一つが抜け落ちてしまいそう。神原の茶柱の事とか、今日はやけに重たいパソコンの事とか、お話の続きとか、今日の夕飯とか。あと今日の神原のネクタイがラベンダー色なのが気に喰わないとか。

考えることが沢山ある中、後ろでかすかな足音が聞こえた。あたしの真後ろで廊下の入り口のちょうど真ん前。

神原が後ろに居るのかな。あたしはまた新しい事を考える。それがいけなかった。
パソコンで言えばウィンドウを開きまくった状態のあたしの頭は、それこそパソコンと同じように。

フリーズを起こしてしまった。


「あら?」


自分の声が口の中で揺れた。手はもう動こうとしなかった。何故なら、たった今何を書こうか忘れてしまったからである。
あたしの指に追い付いていなかった画面の文字が、今ちょうど句点を打ち込んだ。

しかし、その続きが全くわからない。さっきまでは確かに頭に入っていたのに。
忘れてしまったのはもちろんそれだけじゃ無かったけど、画面を見つめるあたしは今すぐに忘れた物を取り戻さないといけないわけで。あわわと指やら顔やらをひきつらせるが一向に解決の光は見当たらない。
こんなことなら神原の茶柱なんて考えてるんじゃなかった。


ソファーに座っている神原があたしの手が止まっていることに気が付いたのか、あたしを呼ぶ。布が擦れる音がしたから、多分彼は振り向いたのであろう。


「終わったんですか……え?」


後ろで神原の声が聞こえた。あたしは彼の顔を見るのも惜しんでさっきの意識を探し出す。
探せば探すほどそれはすり抜けてなかなか出てこない。勘弁してくれ。今日は午後から見たいドラマが放送されるんだ。

うーん、どうしたものか。息を少なめに吐く唸りに近いため息を吐いてあたしは気付く。


神原は今なにかに驚いては居なかっただろうか。


まさかあたしの後ろ姿が美しくて驚いたわけではあるまい。じゃあ、どうして。
あたしはバキバキと背骨を慣らしながらゆっくりと振り返った。

背中に入っている発泡スチロールを割るような嫌な音を出しながら、あたしは体の向きを変える。恐らく神原が居るであろうそちらに。
そんなに期待はしていなかったが、先ほど足音が聞こえたので神原がそこら辺にいるんだろうと思っていた。信じていた。

ふわりとラベンダーの独特なにおいが鼻を擽る。


「え?」


まさかそこに茶髪がさらりと揺れるラテン系美女が存在しているとは、微塵も考えていなかったのです。
椅子の背もたれを両手で掴み腰を捻ったまま、あたしは彼女を凝視していた。


腰よりもずっと下まで伸びている茶色い髪の毛。そこまで伸ばすだけで大変だろうに、驚くほど纏まっている。彼女が周りを見回し動かす首に併せて、絹糸の様な髪が大きく揺れた。
シャンプーのCMも真っ青になるぐらい艶を保ったそれが、一本一本煌めいて。
折れてしまいそうな細い腰に、太めの袖から伸びるすらりとした手足。それらの肌はきめ細かく手入れの行き届いた、つるつるな肌。触ればきっとなで回したくなるようなさわり心地に違いない。

突然背後に現れた不審者だというのに、あたしは彼女にただただ見とれていた。
此処最近外に出ていなかったと云うのもあるに違いない。頭の中ではいつものアレがぐるぐると暴走し始めていた。
大きく息が吸いたくなる。自分の言葉で彼女の美しさを表現できるのかどうか、試したくなる。あたしの頭の隅には、言葉の羅列に押しつぶされそうになりながら落ち着けと騒ぐあたしがいた。

そうだ、落ち着かなければ。


「あのバカークランド……」


独り言としてなのか、ぼそぼそと呟いた彼女は、頭にある長い髪を自身でわしゃわしゃと乱した。ゆらゆら揺れる毛先が光を反射する。あ。小さくあたしの息が漏れた。
それをあたしと神原とで見続けていると、その茶色がかった夕日色の瞳があたしを映した。きっとあたしの目も彼女を同じように写しているに違いない。

綺麗な人だなと思うのと同時に何故か彼女に見覚えがあって。しかしそれも思い出す前に彼女は体を動かした。


「え、ちょ」


声を掛けるよりも先に彼女は顔を青くして歩き出していた。長い足で颯爽と歩く彼女はあたしに追いかける為の間をくれずに、廊下から別の部屋へと進んでいく。
少しばかり遅れながらもそれを、神原と足早に追いかけ向かった先は。


間違い無くお手洗いである。
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