青く凛と

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 部活終わりのことだった。着替えて部室を出ようとしたリョーマを呼び止めたのは、手塚だ。
「越前、話がある」
妙に重い表情だと思ったがそれはいつもか、とひとりで結論着けた。

「なんすか?」
何事だと興味深めに集まる部員中の視線を感じる。それを意に介した様子も無い手塚に付いてこい、と言われて素直に従った。



手塚の背中を追って着いたのは屋上だった。夕焼けが空を赤く染めていて、明日も晴れか、なんて呑気に思う。

「竜崎先生から聞いたんだが」

唐突の言葉に、は?と首を傾げる。崩さない、手塚の重い表情にようやく過ったのは嫌な予感だった。

「アメリカでのテニスを勧められたそうだな。お前をしっかりと保証する環境も用意されると聞いている」

一番に思ったのは、バレた。だった。
だってアメリカでのテニスの話は家族と、跡部以外は知らないはずだった。リョーマ自身が決意を固めるまではと、口止めをしていたから。
それがなんで、竜崎に話が、と恨めしくさえ思った。

手塚の答えを待つその姿勢にため息を吐いて、意を決して見上げた。こうなれば認める他は無いことは、分かっているからだ。

「話があるのは事実ッス」
「行くのか?」
その聞き方には、既にリョーマが決断をしていると見越したような空気があった。
だからリョーマが「まだ考えてます」首を横に振ると手塚は僅かに目を見張った。
どうして驚くんだろう、と苦笑する。青学の柱になれ、とリョーマに言ったのは他でもなく部長の手塚なのに。別にそれを重荷だとは思わないけれど、リョーマが悩む原因のひとつであることは確かだ。

「迷っているのか」
手塚の、独り言のように呟かれた言葉が、放課後の屋上に抜けて行く。
互いに制服のまま神妙に向かい合う、この珍しい現状を、レギュラー陣が見たらどう思うんだろう。ほんの少し、興味が湧いた。

「越前、プロを目指すお前にとっては絶好の機会だろう。本当にやりたいことを、お前はやればいい」

手塚の、恐らくはリョーマを思っての進言は、今まで以上に掻き乱されるには十分だった。

本当にやりたいことなんて、簡単に言って欲しくは無かった。
確かにアメリカに行けば日本以上にテニス漬けの生活を送れるだろうし、環境も充実している。何より試合も約束してくれる。プロに近くなれるのは分かっている。そんなことは、最初から分かっているんだ。

それでも迷っているのは、手塚を筆頭とした青学テニス部に出会って、今まで一緒に必死にテニスをして来て、そして柱を託されたからだ。自分を変えてくれた手塚達3年が抜けた青学テニス部を、他でもない桃城や海堂と守って行きたいから。
跡部に指摘されて改めて気付かされた、青学テニス部が大切だと思う、感情が確かにあるからだ。

それなのに、こんなにあっさりと手塚にアメリカ行きを勧められるなんて。胸の奥がチリチリと焼けるような、鉛を落とされたような、味わったことのない思いをした。


「越前の親父さんも、アメリカ行きを望んでいると、背中を押してやって来れと聞いているが」

当然湧いた、南次郎への不満やら怒りやらはこの際置いて。

リョーマはキッと手塚を見上げる。手塚の目が、僅かに細められた。

「部長もずいぶんと簡単に言ってくれるんすね」

自然と口調がキツくなったのは仕方ない。何があっても下手に出る、なんて性格は生憎持ち合わせていないから。

「オレの進路を、部長に口出しされる権利なんてないッスよ」

目に込める感情も、言葉を乗せた声も、自然と力が入っていた。
パタパタと、吹き抜ける風がワイシャツと髪を揺らし、紛れもない夏の匂いもした。青学が優勝した時と変わらぬ筈のその匂いが、今日はスゴく鬱陶しい。

「……越前、もし青学の柱と言ったことを」
「今日は帰ります」

手塚の口から出るだろう言葉を聞きたくなくて、続きを遮った。
夕焼けを背にした手塚の表情は相変わらず人より読み難いが、何故か、苦そうにさえ見えた。苦いのはこっちだと言いたい。

くるりと手塚に背を向けて呼び止められる前に屋上を駆け出した。
廊下を走るのは久し振りで、意味も無く、らしくも無く、何故か罪悪感を覚えた。
部活も終わった放課後の学校は、驚く程に空っぽだった。




バタバタと足音を立てて、家の中を突進する。憎き目的の南次郎は新聞を顔に乗せ、縁側で寝転がっていて。リョーマはその新聞を掴み取って投げ捨てた。
「オヤジ!」
南次郎はリョーマの剣幕に目を細めて
「熱いな青少年」なんて呑気に言う。

いつもと変わらぬ軽いノリが、こんな日はムカっとする。いっそ、八つ当たりでもあるのかも、と自覚はあっても。この父親から発信され竜崎から手塚へ、背中を押してくれなんて言葉が渡ったことが本気で嫌だった。
「リョーマ?」
顔を覗かせたのは、珍しくこの時間に帰っていた母親である倫子だ。
チリン、と縁側に吊した風鈴が風に揺れ、音を鳴らす。涼やかな音も、リョーマを心配そうに見つめる倫子の視線も、まるで自分には関係が無いように思える程に今日は余裕が無かった。

「オヤジ、アメリカ行きのこと言ったのかよ」

「ああ、バアさんには言ったぜ?顧問なんだからいいだろー?」

悪びれもせずに、笑みさえ浮かべる南次郎。リョーマはあきらかな不満の目を向けた。
「背中を押してくれってなんだよ。オレはまだ決めてないのに」
飛び出た文句が、驚く程に弱いトーンになってしまった。
それを見逃さないのが、父親である南次郎だ。ようやく身体を起き上がらせて、珍しく真剣な表情を向けられた。こんな時にこの南次郎がサムライ、と呼ばれていたことを思い出す。不本意だけど。

「リョーマ、お前はプロになりたいんだろ。だったら日本よりアメリカの方が環境的にも良いのは、分かるな?
大体お前は産まれも育ちもほぼアメリカなんだ。向こうの方が慣れてさえいるだろ」

南次郎の口から語られるのは、日本に留まることなど考えもしない、提案と言うよりも寧ろ説得だった。

ああ、これか。と思い出したのは跡部の言葉や表情だ。跡部も、父親からこんな、もしかしたらそれ以上の押し付けを受けたのだろうかと思うと、なんだかやりきれない。

「アナタ」
咎めるような倫子の声も、僅かに手を上げて制止しただけに留めた南次郎は、よっこらせ、と立ち上がった。
「いいかリョーマ、自分の目指す道をしっかりと歩けよ」
それだけ言い残して、縁側から消えた南次郎は、リョーマにとって決して格好良くは無い。今の状況ではアドバイスなんて思える筈も無いし。

なんだよ、みんなして、と。縁側へ腰を下ろす。夜の黒と夕焼けの赤のコントラストを彩る空を見上げて、膝の上で頬杖を付いた。
深く考えるのが嫌で、嫌がる自分も知りたくなくて、なんだか八方塞がりだ、と思った。

ふと視線を移すと縁側に吊された風鈴に興味を示し、風鈴へ飛び掛かろうとするカルピンがいた。その必至な姿に、少しだけ気も紛れて口角が上がったところで、南次郎と一緒のタイミングでキッチンへ引っ込んだ倫子が「ご飯出来たわよ」と声を掛けた。
「うん」返事はいつも以上におざなりになっていた。

「リョーマ」
気遣うように呼ばれて、視線だけを向けると、倫子は申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。
「ごめんね」と実際に謝られもした。
「なにが」母さんが謝ることは何もない。そう言ったリョーマに倫子は首を振った。
「違うのよ。父さんが、怪我でテニスを辞めたとき、父さんはリョーマにテニスでの夢を見たの。だから、母さんは父さんの気持ちが分かってしまうのよ」

そっと吐露された言葉は、確かな温かみがあるはずだった。それなのに、随分とヒンヤリとリョーマには届く。

「リョーマにはリョーマの好きなようにして欲しいけど、でも、父さんの気持ちも、少しでいいから分かってあげて」

ハッキリとアメリカ行きを進言され無かったのは良かったのか、寧ろズルいのか。分からないけれど、それ以上に南次郎の気持ちを分かって欲しい、はそれなりの威力を持っていた。

ジリリッ。蝉の飛び立った音に紛れるようにため息を吐く。
どうしたら良いのか、益々分からなくて。近い人にこれだけの言葉を貰えば、もういっかとアメリカへと突き動かされそうで、怖かった。

相変わらずの風鈴の音と、他の蝉の蝉時雨を聞きながら、今日の夕飯は、これは何の匂いだろうと気を逸らせた。
南次郎の好物のオムライスかも、と見当を付けたら、また溜め息を吐きたくなったけれど。
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