青く凛と

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空調の音とキーボードを叩く音。無機質の部屋と呼ぶのにピッタリな父親の仕事この部屋で、跡部は父親と向き合っていた。
と言っても父親はパソコンばかりに目がいって居る。

「亜梨沙さんとの交際だが」

早速それか、と跡部はため息を吐いた。

確かに表向きは婚約者、許婚ではあるが、あくまで許婚で跡部にしてみれば本気で結婚したいとは思えない。確かに、あらゆる面で申し分が無いと分かっているが。それでもやはり。

「亜梨沙さんから最近お前の付き合いが悪いと聞いている。彼女のご両親も憂いているんだ。
お前はいい加減配慮と言うものを覚えなさい」

亜梨沙のみならず、亜梨沙の両親の憂いともなれば、成る程父親は気にする筈だ。そもそも亜梨沙の両親こそが婚約の目的、その両親が経営するグループこそが婚約の目的なのだから。


常に眉間に皺を寄せて、仕事のみに人生を傾倒させる父親は、息子である跡部の反応などどうでもいいのだろう。こんな話をしていても一向に合わない視線に、跡部は諦めて一歩前へ出た。

「亜梨沙とのことは、それなりにやっています」
「それなりに、では向こうは納得しない。
女性に対しての喜ばせ方は心得ているだろう。多少の手を使ってもいい。満足させなさい」

父親の言葉は、跡部があらゆる女と遊びのような付き合いばかりをしていることを知ってが故だろう。だからと言って父親がそれを容認するとは、お笑いだ。

「一応中学生の息子に言う台詞ですか」
跡部が思わず口を挟むと、父親は鼻で笑った。
「普段は子供扱いを嫌うお前が、こんな時ばかり中学生を強調するとは。やはり未熟だな」

自然と身体中に力が入り、怒りと悔しさが沸き上がる。だがここでそれを爆発させれば、それこそ中学生だから未熟だと笑われるに決まっている。
だからグッと堪えて跡部は父親を射ぬくように見据えた。

相変わらず鳴り響くキーボードの音がそろそろ耳障りで、一層窓の外へと放り投げてやろうかとさえ思った。だが、それも子供としての未熟さを露呈するだけだと分かっていたから、結句は身動きひとつ取れなかったのだが。

「……話はそれだけですか」
跡部が引き上げようとして言うと、父親がちらりと視線を寄越した。

「テニス留学の話があるそうだな」


いきなり方向転換したその話に、一瞬面食らった。
そもそも知っていたことに驚いた。息子のことに興味すら持たないこの人がと。それとも、ただ単に後継者の将来を左右するから知っていたのかもしれないが。
だとしても、跡部にとっては重要な問題だ。
跡部はしっかりと父親を見据えて
「はい。イギリスへの留学の話です」
亜梨沙の話より随分と真剣に頷いた。それだけ、自分の中での重要さが違うのだ。

けれど父親は、跡部のその姿勢にも無反応で、呆気なく、本当に呆気なく
「断りなさい」
と言った。


それは、予想していた答えではあった。
これが経営を学ぶ為の留学ならば手放しで賛成をするだろうが、テニス留学となれば認める筈が無いと。
そもそも父親は、跡部が何よりテニスへ傾倒していることさえ気に入らない様子なのだ。テニスより夢中になることは他にあると、そう思っていることはありありと分かってしまう。

けれど、分かっていてもやはりテニスは止められないし、最早跡部の生活の一部だ。だから、反対されることは分かっていたけれど、それでも反対されることを認めたくはなかった。


只でさえしんとした部屋で、更なる沈黙に襲われるとは思わなかった。
うっかりと声を荒げそうになる程の衝動と、理解をしてくれようともしないことへの途方もなさに、襲われるとは思わなかった。

跡部は血が滲みそうな程に唇を噛みしめ、必死で平常心を保とうとした。
ここでムキになれば余計に父親との関係も悪し、剰え学校でのテニスまでにも影響しかねないと踏んだからだ。

けれど、と跡部は目を細めた。
けれど”跡部財閥“の為に留学は断ろうと自分自身でも決めていた筈だった。
それなのに、何故父親の否定が、こんなにもどすりと心に鉛を落としたのだろうと。分かるようで、分かりたくはなかった。分かってしまったら余計にどうしようもなくなってしまうから。


もうこれ以上口を効きたくない。その一心で踵を返してドアノブに手を掛けると。
「百合子が帰国しているそうだ」
父親が、ついでのように言った。
その名前に一瞬動きが止まったのは、仕方がないだろう。他でも無い、たった1人の母親。跡部にとっては父親よりずっと家族として心を許している、大切な母親の名前なのだから。





父親の仕事部屋から出ると、真っ先に執事を呼んで母親を探させた。
結局、母親は帰国早々出掛けようとしていたらしく廊下で鉢合わせをしたが。

「あら景吾。久し振りね」
凡そ親子らしくない第一声だった。
母親はどうにも奔放な人で、あらゆる国を転々としている。幼い頃こそ淋しさがあったが、今ではすっかり慣れてしまった。母親から楽しそうにウキウキと話される、土産話を聞くのも最早恒例だ。

「お久し振りです。今回はどちらに行かれていたんですか?」
「帰国する前はパリよ。楽しかったわ。お土産も買ってあるから後で見てね」
「ありがとうございます」
母親は、やはり幼い頃から家柄の良い令嬢で、同じく財閥の御曹司で許婚でもあった父親と結婚した。
令嬢らしくまさしく生粋の箱入り娘として育ち、今でも天真爛漫さを残した人だ。
それ故に所謂母親らしさからは程遠いが、年齢を全く感じさせない美しさを保っている。

「景吾は最近どうなの?」
「それなりにやってますよ。部活の方もそろそろ引退ですし」
「そう。もう3年生だもの。そうよねぇ」

母親の頷きに、跡部は柔らかな笑みを返す。

父親よりもずっと、穏やかに話せる。自分のことを聞いて欲しくなる。母親はそんな存在で、父親よりも無条件に信頼していた。

だからこそ、母親と向き合っているとただの中学生に素直に戻れる気がしていた。本当に庶民と変わらない、ただの息子に戻れる気がする。
それなのにだ。

「そうそう、亜梨沙さんは元気かしら?」

早速と出された名前にまたその名前か。と跡部は嫌気さえ覚えた。ハッキリ言えば久し振りにあった母親と、直ぐにそんな話題をしたくはなかったのだ。聞いて欲しい話は、そんなことでは無いのだから。

それでも一応と、跡部は「元気ですよ」と言った。


「良かったわ。2人の関係も順調なのね」
あまりに嬉しそうに言われて、跡部は一瞬面食らった。
亜梨沙との関係が順調だろうと、そんな事はどうでも良いとさえ跡部自身は思っている。

けれど、やはり、彼女との結婚は逃れられない宿命らしいと実感した。
跡部財閥やその系列グループのことには、全く口出ししない母親でさえ、許婚である亜梨沙とのことを気にするとは。それ程までに、亜梨沙との婚約は、跡部が大切にしなければならない、重要極まりないことだと示している。

「亜梨沙さんと仲良くやるのよ、景吾。あなたが今一番大切にするべきことは亜梨沙さんだから」

その母親の悪気の無い言葉は、父親よりもずっと威力があった。信頼し、父親よりもずっと家族として、母親として、慕っていたから。

その母親から、一番大切にするべきこと、と断言までされるとは思わなかった。跡部にとって大切にしたいことは他にあるのに、そんなことを厭わないと、気にもしてくれていないと、信じたくなかった。


どうしても、微妙な反応しか返せなかったのだが、母親は跡部の受け取り方など元より気にしていないらしい。押し付けとは違う、ただ当然の義務として疑わずに、亜梨沙のことを投げ掛けた母親は、いつも通りの晴れやかな笑顔だった。

「また亜梨沙さんと景吾と3人で食事でもしたいわね」
「…はい」
「ああ、そうだ、私、お買い物に出掛ける所だったのよ。また後でゆっくりお話しましょう」
母親は上機嫌に口調を弾ませて、手を振った。



後ろ姿を見送りながら、跡部は例えようのない感情に苛まれていた。
抜け出したくても抜け出せない、暗い迷路のような感情。
テニスをしているときは絶対に抱かないこの感情は、思い出せば幼い頃から家の中で、度々覚えていた気もする。
ここまで顕著なことは、流石に珍しいが。

「坊っちゃん」

いつの間に居たのか。気遣うように執事が呼んだ。けれどその気遣いも面倒で、何よりいつもと同じ筈の、坊っちゃん、と呼ばれることが酷く嫌だった。

跡部は振り返ることもせず、
「出掛ける」
と短く言った。

「はい。お出掛けでしたらお送りを……」
「要らねぇ。ただのロードワークだ」
「ロードワークですか?」
執事が訝しげに聞く。それも当然だろう。これからロードワークへ行くにも関わらず制服のままなのだ。

だが、着替えるのも面倒で何よりも一刻も早くこの家を出たかった。
だから跡部は「気にするな」と、ネクタイだけを執事に放り投げて、家を出た。

流石に心配性な執事も、跡部の言葉を優先するが故に追っては来なかった。
そもそも、本当に自分のことを心配しているかも疑問だが、とらしくもなく自嘲めいた笑みを浮かべて。



夏の季節のお陰でこの時間でも未だに明るい空の下。跡部は意味もなく走りだした。
ペース配分などまるで無視をしたトレーニングや試合とは全く違う。ただただ、がむしゃらに走る、何て行為は久し振りだった。


一見すれば滑稽だが、たまには悪くないのかもしれない。
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