青く凛と

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リョーマのいつもとは確実に違う様子に、不二は戸惑いをそのままに小さく口を開いて、なにかを言おうとした。
けれど、「越前!」と呼び声というよりは怒声が響き渡って、不二とリョーマは声の主へと視線を変えた。
ずんずんと、部員達の訝しげな視線などお構いなしに進んで来たのは顧問の竜崎とミーティングをしていたはずの、桃城と海堂だ。

一瞬にして部全体が不穏な空気へと変わったのも頷ける表情は、桃城と一番近くにいたリョーマでさえ滅多にお目にかからないほど厳しく、戸惑いと怒りを混ぜたような複雑な表情だった。

瞬間的に、まずい。と思ったのは顧問がリョーマの事情を知る数少ない人物で手塚にもその事情を漏らしたと知っていたから、何より今の今まで頭を占めていた考えが青学へ対する後ろめたさだったからだ。
リョーマは小さく息を呑んだ。
そして隣にいた不二は聡くも何かを感じ取ったのか、「あれ、桃。ミーティングもう終わったの?」
わざといつも以上に軽い口調で尋ねたが、桃城はそれすら意にも介さなかった。

目の前に立った桃城が、リョーマを獰猛のような鋭い目付きで射抜き、そして手が伸びてきた。
大きな手がリョーマの胸ぐらを掴む。桃城の常人離れした力と、比較的小柄な体系のお蔭でリョーマの身体が僅かに宙へ浮いた。ぐっと、引き寄せられる。桃城の怒りに染まった顔が目の前に現れ、らしくもなく怯んでしまった。けれどそれも束の間で今度は突き放され、フェンスへと身体が叩きつけられた。ガシャン、とフェンスが衝撃音を立てた。


部員たちが息を呑み、コートが静寂に包まれる。それと相反するようにリョーマの頭の中で煩いほどの警鐘が鳴らされた。

やっぱり、知ってしまったらしい。
もう逃げられない。
逃げる資格はない。


理解した途端、このまま桃城を振り払って逃げ出したくなった。けれど、ぐっと拳を握って堪えた。

向き合わなきゃいけない。

いつでも真っ直ぐに向き合ってくれた先輩だからこそ、リョーマだけが逃れて、かわして、誤魔化して、なんてことはできない。

そう頭では理解しているのに、それでも握った拳は震えていて、情けなさに苦く笑った。

「ちょっと桃!なにしてるんだよ!」

あんまりな光景に立ち尽しか無かっただろう部員の中、真っ先に動いた菊丸が駆け寄って来た。
桃城がリョーマを掴む右手に手を掛けて、必死に離させようとする。
けれどそれは逆効果で、桃城は離されまいと尚更力を強めてリョーマの胸ぐらを掴み、フェンスへと更に押し付けた。胸元が締め付けられるように苦しく、リョーマはゆるりと、片手を桃城の腕にそっと添えた。
苦しかった。本気で、涙が滲みそうなほど苦しい。
でも、それ以上に身体の底から込み上げる苦しさの方がよっぽと堪えきれなかった。
せりあがる強烈な苦痛に唇を震わせて、その合間からはぁはぁと息をつく。
リョーマの事態にようやう気が付いた桃城ははっとしたように胸ぐらから手を離した。
それでも、桃城に詰められた距離は変わらずで逃れられそうもなかった。もっとも逃れる気なんてなかったけれど。

離された手に不二と菊丸が、ほうっ、と安堵の息を吐いて、乗り込んで黙ったままだったから、不二が「海堂」と気遣うように呼んだ。
目の前の桃城の影に隠れていたが、海堂は悔しそうに唇を噛み、戸惑ったように眉を下げて呆然とリョーマを見つめていた。

海堂先輩のそんな顔は、初めて見た。
リョーマは思わず目を逸らす。

桃城のようにストレートに感情をぶつけられたほうが何倍もマシだと思える海堂の悲痛な姿に、じくり、と胸を抉られる。
なにか、言ってほしかった。
怒りを、ぶつけてほしかった。
なんなら、殴ってほしかった。
責めもしないでただひたすら堪えるようなそんな顔はさせたくはなかった。
海堂もまた大切な先輩に変わりない。
傷付けた、なんて思いたくなかったのに。

「お前は……お前は……」

一方で渦を巻く熱情と動揺を海堂以上に処理しきれないようでただそう繰り返す桃城に、リョーマはなんと声を掛けたらよいのかすら分からなかった。
いつものように、なんすかと気軽に尋ねて、生意気だと揶揄される笑みのひとつでも浮かべればよかったのかもしれないけど、それすらも出来なかった。だからと言ってすみません、と謝罪の言葉すら出てこなかった。八方塞がりだ。
どうすることもできない。

さっきまでの温かな祝福と、きらきら眩しい期待が全て崩れてしまったコートは、一瞬で居心地すら悪い空間へと変わってしまった。変えてしまった。
だからこんな空気は耐えられないと思った。それは自分が中心に置かれているからでは無く、当然自分が原因だと分かっているからで。
ああ迷惑を掛けてしまった。と内心で頭を抱えた。しかも、これから掛けるだろう迷惑を考えれば、この瞬間以上に果てしないものだとも分かっているから余計に最悪だ、と頭痛がする。


ただ、やっぱりどうにかしないといけないのはリョーマ自身で他ならない。
どうしたらいいのか相変わらず分からないけど、とにかくこのままじゃいけない。
リョーマは小さな、頼りない決意をして顔を上げると
「桃先輩」
囁くように呼んだ。

桃城は顔を上げ、リョーマの顔をじっと見つめた。
真意を量っているみたいに見えて、リョーマは、くにゃりと眉を下げて、顎を引く。
そんな分かりにくい動作ひとつで、桃城がなにか理解して、決意までしたように小さく息をついたとき、ああ、さすがだと思った。さすが桃先輩。
身勝手なリョーマからの促しに気が付いて、しかも受け入れてくれさえしたのだ。
副部長としての責任感はもちろんあっただろう。だけどそれ以上の優しさを感じた。

短くても濃密な、桃城と過ごした記憶が、頭の中でじわりと広がって溶け出した。
誰よりリョーマを気にかけて理解してくれた器も大きな先輩は、確かに桃城で、それはこんなときでも揺るがない。再確認して、こんなときなのに嬉しくなった。

その桃城が、口を開いた。

「越前、お前……2か月もしない内にアメリカに行くって、本当なのかよ……」

紡がれた衝撃がぶわりと広まって、部員たちが驚愕に飲み込まれる。
一斉に息を呑んで立ち尽くす、なんて珍しい光景を申し訳なく思いながら戒めも込めて目に焼き付けて、リョーマはもう一度桃城を見据えた。
相変わらず震える手は、隠しようもない。
けれどこの先輩たちから逃げることはできない。

だけどやっぱり桃城を筆頭としたここにいる全員が大事だった。
追い込まれた状況が余計にその思いを強くさせた。
青学から離れたくない。みんなと一緒にいたい。テニスをしていたい。

「答えろよ越前!」

だけどついさっき自覚した身勝手なアメリカへの昂揚感と駆り立てられる焦燥感もまた本音にか変わりなくて。
だからなのか、何よりもう嘘を吐きたくなかったからなのか、とにかく困惑したままに答えてしまった。


「オレは、ここでまだテニスしたくて……だけだけど、強い相手をもっと目の前で見たくて。相手したくて。もっと。もっと上に行きたい。
…でも、オレは青学テニス部で。でもさっき、青学なら大丈夫だって、不二先輩みたいに思って。オレは柱なのに押し付けて。アメリカを、オレは…。でも、青学にもいたいのはホントで。
だから、だから…まだ……決められ、ない、」

らしくもなく意味の分からない言葉の羅列。途中で自分でも何を言っているのか分からなくなった。
そんな感情だけが先走った支離滅裂な言葉を、桃城はしっかりと噛み砕いた。

悲痛に顔を歪ませて、リョーマが顔を上げた次の瞬間には全身に怒りを纏わせた。

リョーマはもちろん自分の発言に責任を持っていたわけじゃない。
自分でさえ混乱の中でもがいていたのだ。無責任がゆえに他人に与える衝撃なんて考慮すらしていなかったのだ。
だから、困惑に溺れていた言葉に隠された真意を、リョーマ自身より周囲の方が先に見抜くなんて、間抜けな事態になってしまった。

「…越前、お前、それは、」
海堂が眉根を下げて呟いた言葉を奪うように、桃城は声を荒げた。
「まだ悩んでますってフリして、青学のことも思ってますって言い聞かせて。
でもいつかはアメリカ行きを決意しますって言ってんのと同じことじゃねぇか!」


リョーマは、全身から力が抜けるのを感じた。
足さえ力が入いらなくて、へたりと地面に身体が落ちて、座り込む。

桃城の顔を見上げることも、他の誰かを見ることも出来なかった。

気付きたくなくて、けれどさっきようやく気付きそうになったことを、周りに知られてしまった。それどころか確信させられてしまった。揺るぎない事実を突きつけられてしまった。

自分の狡さとか意地汚さとかも、全部、突きつけられた。

今までずっと受け入れてくれた温かい居場所が心地よくて甘えていた。
青学を守ろうとする振りをして、迷いなんて最もな理由を付けて、本当は自分から突き放して身勝手を押し付けて置いて放って行こうとしていたのだ。
先輩たち築いたあんなに固くて強いものを。


今まで散々大切な問題を引き延ばして逃げていた結果がこれだ。
馬鹿らしくて、現実逃避でもするようにふっと、自嘲の笑いを零した。
泣くよりはマシだったのかもしれないけれど。

「……越前」
不二がいつまで立っても動かないリョーマの手を掴み、立たせた。
不二の目に揺れる悲しみの色に、また小さく動揺する。

この場でなにを言えばいいのか、多分弁解とかそういうものだとは分かっていたけれど、言葉が出てこない。
代わりに頭を下げると、桃城や海堂、不二に背を向けた。
放り出された大切な筈のラケットを拾う気もなく、そのままコートから走った。

後ろから聞こえた呼び声に耐え難い鈍い痛みと申し訳なさを覚えながら、リョーマはただひたすら走って青学を後にした。
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