青く凛と

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重く厚い雲の隙間から薄らと漏れる陽が、コートに鈍い光を落とす。
予報は夕方から雨らしい。リョーマにとっては憂鬱だが、久し振りが故に恵みの雨だとテレビの中でインタビューされた農家は笑っていた。

青学が有する4面のコート。今日は対3年レギュラー陣との指導込みの試合に使われている。
目の前のコートでは不二を相手にした荒井が汗をダラダラと流しながら、コートを右へ左へ前へ後ろへとボールを追って駆けていた。
不二のカウンターによって荒井の懇親のスマッシュは鮮やかに返されて、荒井の背後、ライン上へと落下した。
その一球が最後だった。
審判に回った部員から試合終了の声が掛けられる。悔しさを顔いっぱいに滲ませて肩で息をする荒井と、普段と変わらぬ笑みを崩さない不二が、ネット越しに握手を交わす。不二がなにか声を掛けると、背筋をピンと伸ばした荒井が「ハイ!」と大きな返事をした。その突き抜けた声は曇り空へと吸い込まれて、荒井は清々しい笑顔を見せた。

その様子をラケット片手にフェンスに寄りかかりながら目を細めて見て、小さく息を吐いた。
荒井を始めとした1・2年生は実力が遠く及ばないことを身を持って知っていて、だからこそ素直に指導に耳を傾けて、偉大な先輩が作ってくれた偉業を引き継ごうとしている。
今度は自分たちが青学を押し上げる。もう一度、優勝旗と金メダルをその手で掴む。キラキラ、というよりもギラギラとしたその決意が青学テニス部を熱くしている。
その先輩、同級達の姿は素直に尊敬出来る。リョーマだってギラギラと、熱くありたいと思っている。

だけど、だけどオレは、とリョーマはほんの少し途方に暮れる。青学テニス部のことを思う度熱情の代わりに鬱蒼とした感情が沸く。それはいつもヒンヤリと暗く冷たく、リョーマを深淵へと追いやる。
ああなりたい。だけどなれない。アメリカと天秤にかけるなことをしているのだ。
荒井達のようにがむしゃらになれないし青学のためだけに突っ走れない。
どうしようかな、これ。と自然と苦く思って首を傾げていたリョーマは、目の前に立って自分の顔を覗き込む不二の姿に気が付くのが遅れた。驚いて僅かに身を引いた。

「考え事?」
「…別に……」
「ふーん」

曖昧なリョーマの返事を特に気に止める様子もなく、不二はリョーマの隣に並んで、リョーマと同じようにフェンスに背を預けた。
額にこそ汗をかいているが、未だにコートの外で息を整える荒井とはやはり消耗の度合いも雲泥の差らしい。技術面、体力面の差はもりろんだが不二の、レギュラー陣折り紙つきの意地の悪い指導の結果でもあるだろう。
わざと相手の得意とする領域に踏み込んで、いちど蜜を吸わせてから、だけどそれだけじゃ生き抜けないよ?と言わんばかりに相手を不得意に誘い込み、問題と真正面から向き合わさせる。しかも相手を強引にではなく、試合展開の自然な流れのように。ただ不二は、試合が終わるころにはきちんと自分自身で自身の欠点を気付かせで成長させるなんて、高等なことやってのけているので、感謝すれど文句を唱える部員はいない。
あの乾でさえ舌を巻くのだから、恐るべし天才、不二周助。
「不二先輩は相変わらずッスね」
リョーマが呆れを含ませて言うと、不二は小首を傾げてふわりと笑った。
「なんのこと?」
とぼけやがって、とリョーマは胡散臭いものを見る目で不二を見たが、すんなりと受け流された。
もう、この人にはなに言っても無駄だと、リョーマは肩を竦めた。




3年生手塚や大石たちから、海堂、桃城の新政権へと移行してそれなりの期間が経つ。
だから、無暗に口を出さずにただ技術指導に主を置いて見守ることを貫いている3年と、いつか部室でした喧嘩から頭を冷やして今は互いに協力をする海堂桃城の姿も、だんだん様になってきた。
その僅かに安定へと落ち着いた空気は、部の士気を更に高めた。
引退する3年生の、自分達の旗頭となる海堂桃城の期待に応えたい、そんな想いがひしひしと感じられて、青学テニス部は溢れんばかりの活気とやる気で満ちている。
その中でリョーマはというと、部の絶対的エースとして求められるがままに、海堂や桃城に手を伸ばすことが多い。
だけど手を伸ばす度に信頼と安心で満ちた目を向けられて、その度に胸がざわついた。

ざわつきは、決して良い類のものでは無い。寧ろ罪悪感や後ろめたさ、申し訳なさばかり。
期待されるほど、信頼されるほど、リョーマは青学のことを考えているわけじゃないというのに。リョーマ自身、何度も自覚するが、やっぱりどうしようもなく迷っているのだ。青学とアメリカでのテニスを。

みんなのようにリョーマも描く青学2連覇の目標の横。リョーマの場合は常にアメリカがあった。
閉会式で手にしたあの大きな優勝旗を再び手にするイメージを覆うようにして、アメリカで強いプレイヤーと対峙する姿が頭の中を駆け巡る。
青学の部員みんなで勝利を誇って笑う姿と同時に、アメリカの整った環境とテニス漬けの日々を送って、そこに集まる強豪たちを相手にしたい。そしていつか雑誌やテレビで見るようなプロプレイヤーと対戦することをイメージをすると、ワクワクして、いてもたってもいられない。
柱を託された青学のために、生意気、唯我独尊と揶揄されるリョーマを温かく受け入れ押し上げてくれた青学の為に突き進みたいのに、そうやってアメリカでのことを思うと胸が熱くなって、どうしようもなくなる。もっともっと強くなりたくて、高みを目指したくて、感じたことのない強さを目の当たりにしたくなって、仕方なくなるのだ。
それは皮肉にも青学テニス部皆が抱いているギラギラとした熱情と似ていた。

ああ、と頭を抱えたくなる。
こんな、あまりに宙ぶらりんで優柔不断な今の状態に、吐き気さえ催すこともある。
最低だと、今までのどんな自分より面倒くさいと、自覚があるからだ。決断しなきゃいけないのにしたくない。そんな情けなさに打ちのめされる。

「よっしゃぁぁぁ!」

突如上がった歓喜の雄たけびに、もやもやとした思考のループから顔を上げると、隣のコートで河村を相手に打ち合っていた2年の池田が拳を突き上げていた。
どうやら河村相手に3ゲームを始めて勝ち取ったらしい。
その姿は灰色の雲に覆われた生憎の空の下でもキラキラと輝いて見えた。
対戦相手である河村は、穏やかな笑みを浮かべて池田を見守っていて、コートの外からは自然と部員達から祝福の拍手が贈られる。
第3者が見ても温かく思えるだろうこの光景は、我が部を愛する青学テニス部員達にとって、特に引退間近の3年生にとって本当に誇らしく眩しいものらしい。それは、隣に立つ不二の柔和な顔が語っていた。

リョーマもまた、自然と顔が和らいだ。

ああ、青学のために、頑張ってるな。
これからの青学はきっとまた、強くなるな。

そんなことを思って、自然と思っていて、ハッとした。

リョーマは仮にもこれからの青学を支えるはずの新しい柱だ。部員達には期待もされている。
それなのに、思ったことはどこまでも他人事のような、自分とは突き放した考えだった。
青学でプレイをし続けたいのなら、頑張ってるななんて当然思わない。他人ではなく自分がどうにかしたいと思う筈で、強くなるなじゃなくて強くしようと思う筈だ。
まだ迷っているから。迷っているから、だからだ。仕方がない。そんな甘い言い訳じゃ拭いきれないほど、薄情な気がした。
まるで全部投げ出して、責務も期待も信頼も、全部置いて行こうと、しているようだった。

「青学の為に、みんな頑張ってるね。これなら僕らは安心して、青学テニス部を任せることができる」

ひどく穏やかに呟かれた、タイミングの良すぎる不二の言葉が、リョーマの自然に湧いてしまった思いとリンクした。

そう、不二のように引退する3年生が言うのならば納得できる思いだ。なんら不自然じゃない。当然否定できるはずもない。不二達は、3年間という真っ当な期間、青学のために尽力してきた。3年間の集大成があの大会で、そして見事に目標の花を咲かせたのだ。
けれど、リョーマはルーキーで、だからこそこれからを任されたのだ。あとの2年間、青学を導いて行けと。今まで先輩たちがやってきたことを今度はリョーマがする番だと。

大切な青学。自分を受け入れ、見守り、頼ってさえくれる青学。
大事だった。離れたくはなかった。
アメリカを進言した手塚に啖呵まで切ったのは、青学の存在があったからこそだ。筈だった。

けれど、どうして今。不二と同じように青学テニス部を引退するような、温かさえ覚える感情を抱いてしまったんだろう。
自分は違う場所へ行っているかのように思ったのだろう。
リョーマの頭と腹の中をずっと這っていた悩みが、ようやく出口を見つけたような予感がした。
しかも、リョーマの望まない退路であり、答えを。


思わず、左手に握っていたラケットが手から滑り落ちた。
その音にラケット、持ち主のリョーマへと視線を向けた不二は、珍しく余裕を崩して瞠目した。
「越前?」
不二さえを困惑させる今の顔はどんなにひどいんだろう。
夏なのに完璧に冷えてしまった体温。乾いた唇。震える指先。揺れる景色。
それらを誤魔化す、言い訳とか説明も思いつかなくて、リョーマはへらり、力無く笑って見せた。
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