青く凛と

□13
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「え?大石先輩と菊丸先輩が?」
未だに生乾きのままタオルを頭に乗せてバスルームから戻った越前が、跡部の報告に妙に引き攣った顔で呟く。
「ああ。それよりお前、なんで髪を濡らしたまま出てくるんだ。そんなに濡れんのが好きなのか」
「……乾かしたよ」
力なく、それでも素直に頷かないのが越前だ。
「きちんと乾かせ」
跡部がドライヤーを放ると、条件反射でキャッチしたものの、「面倒くさい」なんてそれこそ面倒な呟きをした越前に、跡部は溜息を吐く。
跡部邸のテニスコートの利用頻度が多い越前の着替えは何故か常備されていて、今はその常備されていた白いシンプルなTシャツと紺色の短パンに身を包む越前に近づき腕を引いて、ソファに座らせる。
これこそ心配をする先輩の心後輩知らず、と言ったところだろうか。黄金ペアの顔を思い出しながら、無頓着な越前の髪を仕方なく乾かしてやることにした。
初めこそ「ちょっと」と異議を唱えたが、少しするとされるがままになった。越前の髪がさらさらと跡部の指を通り、艶のある黒髪は自分の髪とはやはり違うなと思う。今更思い返さなくても当然だが、跡部が人の髪を乾かすなんて芸当をしたのはこれが初めてだ。だから何だ、とは本当に思うが。
越前が気持ちよさそうに目を細める仕草に猫か、と内心で笑った。そして自然と胸に去来した生温かさにはやっぱり知らない振りをして、さっきより強引に髪を掻き混ぜる。
乾かし終えると理不尽な抵抗を込めて、その黒い頭を叩くことも忘れずに。
「ほら、どうだ」
「どうも」
仰ぎ見ながら小さな笑みを浮かべて言われて、跡部は思わず手を留めた。
越前の淡い翡翠色の眸に映る、妙に誇らしげな自分の姿を認めて、なんだこれは、と妙に居た堪れなくなる。むずかゆい。恥ずかしい。頭を叩くなんて抵抗は本当に意味が無かった上に、越前へのこの行き場のないあり得なさの方があっさりと、斜め上に行った。
言葉に詰まって、代わりに、もう一度跡部が乾かしてやったばかりの頭を小突いた。行き場が無かったから。
「なんだよ」
当然、越前の抗議の視線を、受け流すことしか出来なかった。
気を取り直す為にもとソファに身を乗り出し、硝子細工の凝った猫足のローテーブルの上に手を伸ばすと、そのまま置いてあったカップを引き寄せて越前の前へ置いた。
ただ、ソファへ乗り出した際に越前から跡部が愛用するシャンプーの香りが鼻を掠めたのたのには、何となく、腹の座りが悪くなった。
越前がカップを覗き込み、それから少しだけ口に含んで首を傾げた。
「チョコレート…?」
「ああ」
越前が風呂に入っている間に用意したのはチョコレートを溶かしてミルクと混ぜたホットチョコレートだ。どうせ越前愛用の炭酸飲料でも要求されるんだろうと踏んでいたが、あれだけ身体を冷やした後だ、温かいものでもと思い、そうなると子供舌の越前は、珈琲を好まないし紅茶もあまり好きでは無いと知っていた。だからホットチョコレートだ。用意させた際に執事に「坊ちゃんもよく飲んでいらっしゃいましたね」と懐かしそうに微笑まれ、苦くなったが。
越前は湯気の昇るカップを両手で大事そうに包み、唇を尖らせて、ふうふうと冷まさせていた。昇る白い湯気が越前の横顔を頼りなく揺らす。
ただ何かを飲むなんて日常でしかない仕草ひとつで妙に目を奪われてしまう。逃さないようにとシャッターを切るように、脳内に刻まれるのが自分で分かってしまう。
どうしたらいいか分からなくて、意味もなく掌を開いたり閉じたりを繰り返して気を紛らせていると「おいしいね」一口飲んだ越前が目許を緩めてほっとしたように言った。
「…ああ…」
曖昧な返事をした跡部に、越前は
「うん、おいしい」
と穏やかな微笑を携えて頷いた。


 窓の外では相変わらず雨が降っている。その雨音が、温かい部屋の中、跡部の耳に甘く響き、全身をゆっくりと包み込む。それは甘いけれど居心地が悪い、けれど手放すのがひどく惜しいような。尊く、それでも手を伸ばすのを躊躇うようなもの。自分でも訳が分からない。
どうかしてしまったんだ、きっと。
跡部は自分自身に苦笑して、越前に背を向けるように立ち上がり出窓に掛かるカーテンへ手を掛けた。雨さえも隠してしまう黒く染まった窓の向こう。それはいつもより一段と眩いと錯覚する部屋の煌々とした灯りよりもずっと、本来跡部が投じていた景色に近い気がした。

「ねぇ跡部さん。ひとりごと、しゃべってもいい?」
越前の、悪戯めいている癖をして小さく震える声に、跡部は振り向く。
越前はカップを置いて膝を抱え、目を伏せていた。コートに立つ越前よりずっと小さく頼りなく見えるその姿に手を伸ばしたいと思った。でも、出来る筈もない。そして今するべきではない。代わりに跡部は「ああ」と出来るだけいつもと変わらない声で了承した。
「ありがとう」と越前が小さく顔を上げる。跡部は越前の目を真っ直ぐに見ると、しっかりと頷いて見せた。
 雨の日。雨音を聴きながらの話しは普段より僅かに饒舌で少しだけ素直になれるのかもしれない。越前のぽつり、ぽつり、と話される懺悔のような吐露を聞きながら跡部は思った。
「オレは、きっと甘えてた。ずっと。居心地良かったし。でもそれじゃダメで」
わざわざ独り言だと前置きしただけあって、話しはまとまりが無かった。青学の話をしていたと思ったら父親の話にも行くしアメリカの話。プロへなることへのサクセスまで。
けれど、どれだけまとまりがなくても。伝わるのは紛れもない青学への深い想いと、プロの道をずっと目指してきた越前の熱くひたむきな想いだ。
こうやって話をしている内に、越前が折り合いをつけらればいいが、と跡部は目を細める。真っ直ぐ過ぎるのだろう、越前は。青学の柱になることとプロへの道の為渡米することは決して相容れないなんてことは無い。部長として身を焦がしてきた跡部には、そこに居て自分が指標となって部を導くことの大切さも部員と一緒に切磋琢磨して勝利を分かち合う大切さも理解しているが、それでも越前のような柱が居てもいいじゃないかと思う。越前にはまだ無限の可能性が秘められていて、それを発揮出来る場所が日本で無いのなら、行くべきだ。そこへ居なくてもこれだけ青学を想っているのなら、アメリカでの越前の活躍は、青学を今以上に高める。きっと。何より跡部自身、越前の真価と躍進を見たい。可能性があるのに挑まないなんてことは許せない。一度ライバルとして認めたプレイヤーとしては。
早く開き直って吹っ切ちまえ。お前なら大丈夫だ。大丈夫だから、
溢れる言葉を飲み込んで、跡部はそっと越前の話へ耳を傾けた。
何かを進言することを越前は望んでいないし、これは越前自身が気付くことだ。そして越前リョーマならそれが出来ることも跡部は知っていた。
窓の外。降り続いていた雨は、少しづつ弱まって行った。


結局、越前の【独り言】が終わったのは話始めてから30分近く経っていた。それでもまだ跡部の予想よりは早かったが。
終わりの合図を示すように大きく肩で息を吐いた越前は、跡部を見上げて「ちょっと熱くなってきた」と言った。
跡部は「そうだな」と頷くと部屋の空調の温度を変える。ホットチョコレートが入っていたカップを覗くと空になっていた。
「お前、今日泊まってくか」
冷蔵庫から今度こそ越前愛飲の炭酸ジュースの缶を取り出して、放ってやってから聞く。
越前は缶のプルタブを早速開けて「うーん」と少し悩んだ後、首を振った。
「帰る」
「そうか」
「アンタにこれ以上迷惑掛けたくないし」
「お前な、いつだったかも言ったがもう少し傍若無人キャラに徹しろ。迷惑なんて感じねぇ奴だろ」
わざと揶揄混じりに言うと越前は跡部をじっと見上げて、力が抜けたように苦笑した。
「そうだね」
「で、どうする」
「帰るよ、ただひとつだけ。風邪引かないでよね。オレのせいだって言われたら嫌だから」
そう言った越前の目は、コートでネットを挟んで向かい合った時に見せる目と似ていた。
生意気な、と跡部は笑う。けれど生意気な目と言い方の癖に言葉の内容にあるのが気遣いだからか若干擽ったい。小突くためじゃなく越前に伸ばそうとした手を何とか留めて。
ふっと大袈裟なくらい高慢に笑って顎を上げた。
「俺様が風邪なんてもんに侵されるか。お前こそ危ねぇんじゃねぇか」
すると越前は何が可笑しいのか笑った。
なんで笑う。舌打ちをして、今度こそ越前を小突く。
それから、ああ、やっぱり、こっちの方が俺達らしいな。と跡部は安心を覚えた。
それでも、今まで越前がこんな顔で笑うことなど知らなかった。跡部が今まで知らなかったように、この顔や、さっきの顔も知っている奴なんてほんの一握りなんだろうと思うと、それが誇らしい。
ああ、早く越前を家に帰した方がいい。一刻も早く。
痛む頭で考えて、「早く飲め」と促す。そして帰れ。
けれど悪態を付いたのに越前が炭酸を口にして、濡れて尖らせた唇をじっと見つめてしまった。
いやいや、と首を振っていろいろと振り払った。
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