桜の巻

□後ろから抱きしめられ
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この、満州の地に渡ってどれぐらいの時が経っただろう。



今、私はお腹に一つの命を宿している。



この子は、私と、愛しい左之助さんとの、大切な宝。



子供が出来たと知った時は、とても驚いた。

と共に、とても嬉しかった。



けれども、私は今、底知れぬ恐怖に苛まれている。



(……なんだか、眠れないな…)



布団に横になったものの、一向に睡魔が襲ってこない。


隣には、安らかな顔で眠っている左之助さん。


私は、彼が起きないようにそっと布団を抜け出し、家を出た。




月の綺麗な夜だった。


家近くの浜辺に出て、大海原を見渡す。


月が波に揺られ、形を変える。


少しひんやりとしているが、心地よい風が頬を撫でる。


あの海の向こうには、私達の祖国、日本がある。


懐かしい、あの祖国。


かつて戦が起き、沢山の仲間を失った。


ここには、戦はない。


もう大切な人を失うことはない。


彼とずっと一緒にいられる…


そう思うと幸せだった。


私は無意識のうちに、お腹を撫でていた。



もうすぐ、この子が生まれる。


嬉しい。

でも、



怖い。



左之助さん以外に知る人もいないこの異境の地で、1人で子を生むという事が、どうしようもなく怖かった。


「無事に、あなたを生めるかな…」


優しくお腹を撫でながら話しかける。


とん…と子供がお腹を蹴った、気がした。


私は微笑む。



弱気になってはいけない。


ちゃんとこの子を生まなければ…



ふわり



突然、温もりが、私を包んだ。


私は驚いて目を見張った。


「左之助、さん……」


温もりの正体は他でもない、左之助さんだった。


筋肉質の逞しい体、そして、彼自身の優しさが、私を包んでくれていた。


「……何も言わずにいなくなるなよ…。びっくりするだろ…?」


少し眠たそうな声で、左之助さんは囁くように言った。


「ごめんなさい…。起こしたくなくて…」


「馬鹿野郎。家出か、もしくは誰かとの逢い引きに行ったかと思ったじゃねえか」


「……本気で言ってます…?」



私が左之助さん一筋な事を理解しているはずなのに、彼は意地悪なことを言う。


彼は、淡く笑った。


「…冗談だ。だけど、心配したのは本当だぞ?」


「わかってます」



それきり、しばらく彼は黙りこんでしまった。




「……怖いか…?」



唐突に開いた彼の口から出たのは、そんな言葉だった。



「……怖くはありません…」


彼はきっと出産のことについて聞いたのだと思う。


何が、とは言わなかったのに答えたのは、私自身が、本当は出産を怖いと感じているからだろう。

「どうして嘘をつく?」

左之助さんの口調は厳しくなった。


彼にはすべて見抜かれてしまうというのに、つい去勢をはってしまう。


それは単に、彼を心配させたくないから。



「嘘なんかじゃ、ありません」



顔に精一杯の笑顔を浮かべる。


しかし、彼の表情は変わらなかった。



「……まだわかってねえみてえだな…」



そう言った後…



左之助さんの唇が、私の唇に重なった。



「愛してる。千鶴」



そう言った彼の瞳は、切実な思いを訴えていた。


私の目から、涙がこぼれ落ちた。



左之助さんだって不安なのだ。



左之助さんは私を愛してくれているから…


きっと、私が左之助さんに心配をかけたくないと思うように、左之助さんも、私を支えたいと思ってくれているんだ。



「…ごめん、なさい…」



私はなんて浅はかなんだろう。



泣いている私を宥めるように、左之助さんは頭を撫でてくれた。



「一人で抱え込むな。所詮俺には、子を産むことに関しては、何も出来ない。だけどな、お前の心の苦しみとか、不安だとかを共有して、お前の心を軽くしてやることぐらいはできる。それが夫婦ってもんだろ?」


耳元で囁かれた言葉に私はこくりと頷いた。


すっと後ろから、お腹に左之助さんの腕が伸びてくる。


「元気な子が生まれるといいな」


大きな手でお腹を撫でられる。


ドンッ


「おっ?今蹴ったろ?」

「はい」


「どうやらコイツは元気そうだ」



左之助さんの横顔は、とても嬉しそうだった。



「あーあ。幸せ過ぎて、罰があたりそうだ」



左之助さんはお腹に手をあてたまま、私を強く抱きしめた。






後ろから抱きしめられ
あなたの温もりをこの距離で感じられることが、

私の一番の幸せ




狂歌恋舞。様の企画提出作品です。


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