桜の巻
□二人三脚
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まだまだ、暑さも衰える事を知らぬ今日この頃。
夕食の仕込みを大方終えた千鶴は、縁側に出て、簾によって作られた日陰に腰を下ろし、傾きかけた夕日を眺めていた。
釣瓶落としとはいかぬにしても、幾分か姿を隠すのが早くなったように思える太陽。
それが空を薄紅に染め上げているように見え、その情景はなんとも趣深かった。
不意に近づく人の気配。
その者は、千鶴の隣にゆっくりと腰を下ろした。
それからすぐに、千鶴の頬、そして頭を、優しい風が撫でた。
髪の生え際から滲み出る汗が冷やされて、頭がすうっとして気持ち良い。
パタパタという紙の音も、耳に心地良かった。
千鶴は隣に座る人物の方を振り向いた。
彼は、パタパタと団扇でこちらを煽っていた。
千鶴はゆっくりと目を閉じた。
風は止む事無く、顔の正面に当たる。
しばらくそうした後目を開ければ、夫は優しい目をして自分を見つめていた。
それに千鶴は微笑みを1つ返した。
そうすれば、彼は少し瞠目し頬を染める。
手で着物の袖を掴み、額を拭ってやれば、夫は益々照れたように顔を赤くした。
無言の会話。
何を話すでもなく交わされるやり取りは、時がゆったりと流れて行く。
そんな時間が千鶴は好きだった。
「まだまだ暑いですね」
千鶴は沈み際のギラギラと真っ赤に燃える太陽に目をやった。
「そうだな」
「でも一さんが扇いでくれているお陰で、涼しいです」
「そうか」
すると、団扇を動かす速度が上がり、風が強くなった。
千鶴は夫の手に己の手を重ね、制止した。
「一さんが疲れてしまいます。今度は私が一さんを扇ぎますから」
団扇を取ろうとすると、彼は手を離さなかった。
「お前はいい。少しでもお前の体が楽になればと思い、やっているのだ。これしきのことで疲れはしない」
夫はそう言って再びパタパタと団扇で扇ぎ始めた。
千鶴は小さく笑って、黙ってそれを受け入れた。
「――少し、腹が膨らんで来たな」
一は妻の腹を愛おしそうな目で見つめる。
「はい。順調に、成育しているみたいです」
千鶴のお腹には、今新たな生命が宿っている。
一は請うような目で千鶴の目を覗き込む。
千鶴は微笑んだ。
すると一はおずおずと手を伸ばし、千鶴のお腹に触れた。
「……ここに、命が宿っているのだな……」
一にとってそれはなんとも感慨深い事だった。
人の命をこれまで数多奪ってきた。
その報いを自分は当然受けて然るべきだと思っていた。
しかし、どういう因縁だろう。
自分は生き長らえ、あまつさえ最愛の女性――千鶴――を手に入れ、更に子宝に恵まれるとは。
この世に、因果応報などありはしないのかもしれない。
もし、あるというのなら、この幸福は、一体なんだというのだ。
一は優しく、千鶴の腹を数回撫でた。
「……無事に、生まれると良いな」
「……はい」
2人には心配な事が1つあった。
それは、千鶴の体が弱いということ。
医者からは恐らく難産になるだろうと言われた。
一は、千鶴さえいれば子など望まない、そう言った。
しかし、千鶴は断固としてこの子を産むと言い張った。
妻の強い主張に、流石の一も折れた。
そして、精一杯妻を支えると心に誓ったのだった。
しかし、やはり不安であることに変わりはない。
「何か、具合が悪くなったりはしていないか?」
仕事で家を空けている間に、もし何かあったら……。それが今の一にとって一番心配な事だった。
「大丈夫ですよ。特に、異常はありません」
そうは言うが、千鶴の性格だ。強がっているのではと疑ってしまう。
そんな一の心情を察してか、千鶴は一の胸にコトンと頭を預けた。
「本当に大丈夫ですから。何かあったら必ず言う、そう約束しましたでしょう?私は約束は破りませんよ」
一は千鶴の体を抱き寄せた。
「……わかっている。……それでも……不安、なのだ……」
そう呟く彼の声は心なしか震えているように聞こえた。
戦場ではあんなに勇猛果敢だった彼のこんな姿を、誰が想像出来ただろうか。
1人の愛する女性の前では、彼もただの男なのだ。
そんな彼を思うと、愛おしく思う気持ちは増していく。
千鶴は、一の逞しい胸板に頬をすり寄せた。
「確かに、私も不安じゃないと言ったら嘘になります。でも、一さんがいてくれるから……頑張れるんです」
彼が自分の事を大切に思い、愛情を注いでくれる。
それだけで、なんだって出来る。
「ですから、そんなお顔をしないで下さい」
胸元にある千鶴の顔は一を見上げた。
千鶴の瞳は不安を灯す瞳と出会う。
彼の心を解きほぐしたくて、千鶴はにっこりと笑って見せた。
一はしばらくじっと千鶴の穏やかな顔を見つめていたが――その後、すまなかったと言って千鶴の唇に口付けた。
太陽はすっかり山の端に姿を隠し、丸い月が、姿を表していた。
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