桜の巻

□二人三脚
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そろそろ寒さも本番に差し掛かろうという時候。

千鶴のお腹はかなりふっくらとして来た。

これから迎える寒さに備え、千鶴はチクチクと羽織を縫っていた。

「………っ……!」

突然、千鶴は頭を抑え、顔を歪める。

頭がズキズキと顕著に痛み出したのだ。

そう。最近、つわりが酷くなって来ている。

お腹の中の子供が順調に成長している証なのだろうが、かなりつらい。

外を見れば、もう日は落ち薄暗くなっている。

(そろそろ、夕食の支度をしなくちゃ……)

千鶴は布をたたみ、裁縫道具をゆっくりとしまう。

そして机に手をつき、立ち上がろうとした。

しかしその瞬間、ぐわりと眼前に白い光景が広がる。

千鶴はよろめき、再び、机に手をついた。

眩暈だった。

(この状態じゃ、夕食は作れそうにないわ……)

千鶴はその場に座り、深く溜め息をついた。




「ただいま」

仕事から帰ってきた一は、いつものようにそう告げて家の中に入った。

しかし、いつもとは違い、妻の出迎えはなく、返事すらない。

不審に思った一は何度か妻の名を呼んでみた。

するとようやく

「はーい…。お帰りなさい。……すいません、こちらに来て貰えますか?」

と返事があった。
その声はどこか力がなく、弱々しく感じられた。

声のする方へと向かうと、そこには柱にもたれかかっている妻がいた。

顔は青白く、いかにも具合が悪そうだった。

一は驚いて駆け寄った。

「千鶴!どうしたのだ!?」

すると千鶴は力無く微笑んだ。

「すいません……。頭が痛くて、眩暈がするんです……。単なるつわりの症状なんですが、ちょっと今日は重いみたいで」

「そうか……。少し待っててくれ。すぐに布団を敷く」

「ありがとうございます」

一は机を部屋の隅に寄せ、布団を敷くと、その上に優しく千鶴を寝かせ、掛け布団を掛けてやった。

それから井戸へ行き桶に水を汲むと、手拭いを濡らし、千鶴の額の上に乗せた。

「こうしていた方が症状が軽くなるだろう。寒くはないか?」

「はい。大丈夫です」

とりあえず、一はホッとひと息をつく。

千鶴は申し訳なさそうに口を開いた。

「あの……実はまだ夕食の準備が出来ていなくて……」

疲れて帰って来ているというのに、食事の1つも出来ていない事が情けなかった。

シュンとしている千鶴に一は微笑むと、その大きな手で、ふわりと千鶴の頭を撫でた。

「そうか。ならば今夜は俺が作ろう。たまには、家事もせねばな。良い機会だ」

文句どころか、自ら進んで一は食事を作ると申し出た。

彼のその大きな愛に、千鶴は胸が熱くなるのを感じた。

何だか目尻から零れた気がしたが、それはきっと具合が悪くて、気持ちが弱っているせいだ。
きっと、そうに違いない。





「起きれるか?」

千鶴は一に支えられながら起き上がる。

「つわりの時にはお腹に優しい物が良いらしい。だから粥を作った」

彼の博識さに千鶴は改めて舌を巻いた。

本当に何だって出来て、何でも知っている人だ。

一は粥を匙で掬い、さも当たり前かの様に、千鶴に差し出した。

なんだか結構、俗に言う甘々な新婚夫婦らしい事をしている気がするのだが、当の一の表情を見るに彼には全くその気がないらしい。

それはそれで彼らしい気もするが、こちらはなかなか赤面物だ。

「あ、あの一さん?私自分で食べれますから」

千鶴は若干苦みの入った笑みを浮かべながら、匙に手を伸ばすが、彼はそれを良しとはしてくれない。

軽く示唆してみたつもりだったが、彼は全く気づいていないようだった。

千鶴は諦めて腹を決め、恥ずかしさを感じながらも口を開いた。

千鶴が食べさせられるままにパクパクと食べていく様子を、一は嬉しそうに見ていた。

「……一さんはやっぱり、すごい人ですよね」

「何がだ…?」

唐突に投げかけられた言葉に首を傾げる一。

そんな彼に、千鶴はにこっと笑った。

「物知りで何でも出来て……それに、こんなにも私を愛してくださって。良い夫を持って、私は幸せ者ですね」

的確な対応と迅速な処置。
更に、家事まで完璧とくれば、文句の言いようがない。
それだけではなく、彼の全身から“愛”が伝わってくるのだ。

「いいや。幸せ者は俺の方だ。こんなに健気でか、かわいい…妻が持てて、俺はとんだ果報者だ」

かわいいという言葉が少し小さくなったのは、照れくさかったからだろうか。
そしてそう言った彼の顔はとても柔らかい顔で、その頬にはほんのりと朱が差していた。

――この一の表情は“幸せ”を意味する表情――

千鶴は、一を見てこちらまで顔が弛んでしまうのを感じた。




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