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陰りゆく世界と、君の声[5]


18.
ねえねえ聞いた?何を。隅っこの部屋の彼、亡くなったんだってね。失血死だって。ええ、なんで。事件にでも巻き込まれたの?
ほら、前から色んなところに傷を作ってたじゃない。あれって自分でつけてたんでしょ。
そういう病気だったんだ、知らなかったな。いつもは自分で応急手当てしてたらしいよね。でも今回は運が悪くて、傷が深すぎたみたい。
そりゃあお気の毒に。だけどいい迷惑だよな、同じ住宅でそういう不吉な事件を起こさないでほしいね。
ほんとほんと。で、聞いた?遺体の話。知らないよ、今度はなに。取り調べ中、その場の捜査員が外に出ていた時があってね。なに、どうしたの。
消えたんだって、その遺体。

(なんだろ、この声…)
心拍数が上がると共に、首周りが厚い包帯のせいで汗を掻いていた。
これでは傷が膿んでしまうと、首筋に指を宛がう。物凄い発汗量だ。
それを二本の指で一掬いして、薄暗い天井の光に照らしてみた。
真っ赤だ。

「傷が……」

なぜだ。引っ掻いたわけでもないのに、傷口が開いている。
首の包帯は何処を触っても湿り気があった。おそらく白を覆い尽くすほどに血の花を咲かせているに違いない。
管理人が顔色をなくして、そこに座れと回転椅子を指さす。
「血が出てるよ」「平気です」「救急車を」「結構です、かまわないでください。失礼します。この記事、貸してください」
首が熱いな、と眩暈を覚えながら、新聞紙を拾い上げた高杉はふらふらと逃走した。

(さかた…ぎんとき…)

手すりに凭れながら、何度も折れる膝を持ち直して階段をあがる。
幸い、部屋に辿りつくまで誰にも会わなかった。
白い制服のシャツにまで滲みこんできた。もう替えがない。そんなことを考えてる余裕もなかった。

――おかえり。
いつも通り、彼は高杉の帰りを待ちわびていた。
「ただいま」と半分薄らいでいる意識で高杉は返す。鏡で確認したわけではないが、おそらく相当な出血量だ。呼吸が荒い。
――晋助、それ。
高杉の首が臙脂色に染め上げられているのを見、銀時の声が張り詰めた。

「何もしてないんだよ、銀時…」
――病院に行かなきゃっ。
「これ読んだら…」

バサっと、白い壁の前に新聞紙を放る。
例の青年の記事が風力で開かれた。

「その人の話を聞いたら…俺……」

自分の傷が呼応した。
高杉はその場で崩れる。ベッドサイドにしがみつき、何とか上半身を起こした。
その記事を目の当たりにした銀時がどんな言葉を口にするのか気になって、その声にだけ聴覚を集中させた。
だがついに声は聞こえなかった。

「その人、この部屋に住んでたんだって…銀時は知ってる…?」

すでにそのとき高杉は確信犯だったが、最後の一歩を踏み込む勇気がなく、そんな意地の悪い聞き方をしてしまった。
相手を追い詰める一方で、上手く逃げて高杉の思う処の答えが返ってこないように願っていた。

――…ああ、知ってるよ。誰よりも。

間をおいた返事は、覚悟を決めているふうだった。
それは逆に高杉を追い詰めた。

「坂田銀時、さんて…一体、どんな人だったの…?」

死んだ、自殺した青年というのは。
彼との日々にこぼれていた光が明滅する。

――俺のことだよ。

高杉は目を硬く閉じた。やはりそうだったか、と底なし沼に突き落とされたような感覚は、絶望と言い表すべきだろうか。

これですべてが分かった。
壁の中の住人。そんな都合のいい解釈をしていたのは自分であって、彼の正体というものは最初からなく、
今この場で聞こえてくる声も、あのとき自分を抱きしめた二の腕も、中身が綺麗になくなっていた器も、この世界のものではなかった。
彼が真相を隠していた理由は、自分が一番よく知っていたではないか。

――ごめん…ごめんな。

泣きじゃくる高杉に、喉をしめるような声で詫びてくる。
何に対して謝っているのだ。屍の分際で生きた人間を惑わせてごめんなさい、か。

「謝らないでよ…っ」

吐かせたのは自分ではないか、と自分の胸を戒めつつ、束の間でも感じていた幸福感を、謝罪の一言で一掃されてしまうのが嫌だった。

――晋助、早く病院に行くんだ。死んだ人間と話していても仕方がないよ。
「…いやだ…」
――ありがとう、楽しかったよ。料理美味かった。話も出来て幸せだった。さあ、早く行くんだ。
「いやだっ」

高杉はベッドにあがり、壁に両方の拳を打ちつけた。
彼に対して何を叫びたいのか言葉の選択肢を失い、只管嗚咽を漏らした。
あの世とこの世の境界線のようなこんな壁は、いっそ砕け散ってしまえばいいのに。
銀時の名前を呼びながら、高杉の爪は目の前の相手にすがりつこうとするように、壁を引っ掻いていた。

――これ以上は、君が苦しい思いを、するよ…。俺は、死体になってもなお消えずに、こんな狭い場所に留まった、臆病者なんだ。

死にたくても死に切れない思いを、高杉は知っている。

「楽しい思いしか、したことないよ…っ」

人前で人形みたいな笑い方しかできなかった自分が見つけた、唯一の生き甲斐だった。
彼と話している時は傷を掻かなくて済んだし、食事時をこんなに心待ちにする毎日なんて、夢のようだった。
傷が痒くて仕方ない時、助けてくれたのは銀時だっただろう。

「そりゃ銀時が死んだ、って聞いた時は、死ぬほどショックだったよ…だけど、それはお前がいつか消えるかもしれない、て思ったんだ…ただの幻だったらどうしようって、不安になったんだ…
なあ、消えるの?消えちまうの?いやだよ、俺。いやだっ、ずっと話したいし、一緒に飯食いたいし、他にも色々…っ」

かつて抱いたことのない感情に揺り動かされて、高杉は初めて銀時を繋ぎとめておきたい、とはっきり言った。

「もし、いてくれたら…もっと色々……っ?」

不意に頬を何かが覆った。高杉はその場を動けなくなる。
顔の角度を固定されたかと思うと視界を塞がれ、酸素を吸い込む動作を止められる。
ん、と高杉は喉を鳴らせた。
再び息を吸い込める術を取り戻した時、目の前に広がった光景に、高杉は瞬きを忘れた。

「…ずっと、君が好きだった」
この部屋に君が来た時から。

人間が知ることのない地底から来るような打ち震えが、高杉の心と身体を支配した。
久々の瞬きのあとには、ため込んだ滴が零れおちる。

首から上だけが、壁を綺麗にすり抜けていた。
癖っ毛の銀髪があちこちに跳ねている、端正な顔立ち。くっきりとした二重が、やや眠たげな、しかしとても優しい目の印象を与えていた。

「おまえ、が……銀、時……」

ずっと会いたいと思っていた。
彼は眉を寄せる笑みで頷いた。

「初対面だね。はじめまして…」
「…はじめ、まして……」

その顔が聞きなれた声で話すと、ああ銀時なんだ、と実感して涙がどっと溢れた。
夢のようだった。銀時に目を奪われたまま、頬に添えてある手にも触れる。
ひとつひとつ確かめたくて指先で手の甲を撫でると、ぬるりとしたものを感じ取った。
この生々しい感触は、と高杉の胸が不穏なリズムを打つ。

「俺がどんな死に方をしたか知ったら……君がまた自分を傷つけるんじゃないかって、怖かった…」

高杉はいつも、あらゆる出来事を自分の身に置き換え、自傷に走る傾向があることを知っていたから。
銀時の手は思いの外大きくたくましかったが、腕の付け根から指の先まで流し見すると、とてつもない衝動が高杉を突き動かした。

「こんなに…傷ついて…っ」

自分と比にならないほどに、骨まで届いているような抉れた傷がジグザグに入っている。
こんな手で、こんな襤褸襤褸の両腕で、自分を守ってくれていたのか。
高杉は銀時の両腕をゆっくりと抱きしめ、慈しんだ。

「傷、痛まないか?痒くないか…?」

銀時が不安げな表情を浮かべる。高杉は首を横に振った。

「全然、痛まないよ…全然…こんな傷に比べたら…っ」

追い詰められて、荒んだ感情のやり場が自らの肉体しかなかった銀時の慟哭が、痛いほどに分かる。

「傷、綺麗にするよ…」
「え?」

ベッドの下から救急箱を取り出そうと、高杉は手を伸ばす。
慣れた手つきで素早く頑丈な蓋を開け、包帯と消毒をつまみだす。

「死人が手当てを受けるのは、変だよ…」
「でも、痛むだろ…お腹だって空くんだから」

血を洗い流すためにタオルを濡らしてくると、高杉はいったんその場を離れようとする。

「いいよ、晋助」
「お願い。俺も銀時に何かしてあげたい…」
「じゃあ、洗いあうことにしよう」

傷を舐め合うんだ、と告げた銀時に、高杉は身体を硬くする。
それは、どういうことを示すのか、込み上げてくる羞恥心が語っていた。
だが同時に、高杉は自分もそれを銀時に求めていたのだと自覚した。

「どうしたらいい…」
「服を脱いで包帯をとって」

その覚悟が決まるまで多少の時間を労し、ゆっくり頷いた。
彼は心臓を壁から離せない、というので、壁と身体を擦り合わせるのとほとんど変わらない。
だがそれでも、高杉はこの男に抱かれれば、自分の中の闇が綺麗に取り払われ、浄化されるのではないかと思った。
汚い部分まで全てを晒す思いで、高杉は纏っているものを取り払い、壁に背中を向けると、銀時の腕が絡んできた。

「首の傷を…」

高杉は少し膝を曲げて、首を銀時の顔の位置まで持っていく。
血は止まっていたが、傷口の周囲に零れた血液の痕を、銀時の舌に撫でられる。
淡い痛みと、歓喜。それらが高杉の心身を包み込む。

「銀、時…ん…っ」

身体の位置を何度も移動して、あらゆる傷口を撫でたり、舐めたりしてもらった。
そのうち別の意図をもって、彼の手が胸を愛撫してくる。
薄桜色の突起の上で指が円を描き、高杉も色づいた息をこぼしていく。
高杉にとっては初めての行為だったので、恥ずかしさに只管身を震わせていた。

「こっち向いて…」

壁と向き合う姿勢になると、今度は突起を舐められる。
抑えていた声が謙虚にあがる。
未知の感覚に泣きそうな顔になる高杉の不安を取り除こうと、「大丈夫?」と何度も声をかけてくれる。

「銀、時…傷、俺も舐めたい…」
「いいよ…」

銀時の腕をとって、高杉は慎ましげに舌を這わせていく。狂気をもたらす血の味も、今は愛おしくて仕方ない。
傷のひとつひとつを、丁寧に愛撫した。銀時の傷を癒すことで、自分の傷も同時に癒される気がした。
こんなふうに愛し、愛されることが出来て、高杉は気が遠くなる暗雲の日々を回想しながら、それを覆い尽くすくらいの安らぎを感じた。

「晋助、そろそろココも、いいか…?」

銀時の手が太腿をなぞっていき、恐らく生まれてから母親以外には見せたことのないそこを、軽く触れられる。
最初はかなりの抵抗があったが、入口を強めになぞられた瞬間、溶けるような快感、というものを、高杉は初めて味わった。

「…う、んん…っ」

挿入された指が内壁を傷つけないよう、ゆっくりと動いている。
高杉は後ろの壁に手をついて、畳みそうな身体を支えた。
突き上げるような動作になると、声を抑えられなくなり、スプリングに合わせて、女のような叫びをあげてしまう。

「イキそうになったら、言ってくれる?」

銀時が言うが、高杉はそもそも、自慰という行為すらしたことがない。そういうものとは無縁だと思っていたからだ。
こんな肉体を、人が好き好んで抱くわけがないと。

「よく…わから、ない…っ」
「じゃあ、もうダメだと思ったら、教えて」

指の動きが早まる。一気に頭の中まで掻き乱される感覚に襲われ、高杉は一層甲高い声をあげる。
涙が溢れてきて、高杉は口をはくはくさせる。

「だ…め…、だめ……っ」
「いいよ、そのまま」

追い詰められ、高杉は人生で初の射精を果たす。
崩れ落ちる身体を銀時に支えられ、接吻を交わした。

「いたたっ、しみる…」
「大丈夫、銀時はこれ以上死なないし」

冗談をひとつ言った後は、遠慮なく消毒液をまんべんなくかける。
これから毎日、この腕の包帯を変えるという役割も、高杉は買って出た。
高杉も自分の身体の手当を手伝ってもらった。特に、手が届きにくい背中は助かった。

「銀時の前じゃなきゃ、こんな醜い姿、さらせないよな」
「そりゃ、俺もそう」

両腕で高杉を壁に引き寄せる。

「後ろからのほうが、抱きしめやすい…?」
「そうかも」

高杉は背を向けてよりかかる。より密着して、銀時の顔が肩に置かれ、耳の後ろに口づけられる。

「銀時……」
「ん?」
「俺、今だったら、死んでもいいや…」
「はは、駄目だよ死んだら」

本当にそう思う。
高杉は何もかもが満たされていた。
照れくささを押し込めて銀時のことが好きだ、と口の動きで表現した後は、彼と長いキスをした。


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