short・ 阿栄


□Black cat
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肩口に顔を埋めてぐりぐりと額を擦り付けて甘えること数分。

その間ずっと短い髪を鋤くように頭を撫で続けてくれた無骨な手は言葉より雄弁に慰めを与えてくれた。


「あべぇ」


もう何度目になるのだろう。舌の上で転がすように、意味なくその名を口にする。


「あーべ」


だって、ただこうしてくっついて、名前を呼ぶだけで落ち着くんだ。


「あべぇ…」

「ん…」 


大きな手が子どもでもあやすようにぽんぽんと優しく背中を叩く。

伝わる温もりが心地いい。


「あべぇ」

「おう」


ときどきどうしようもなく不安定になってしまう俺に、阿部はいつだって多くを語らずつきあってくれる。

どうした?なんて訊かないけど、俺のこと心配して気づかってくれてるのが、見つめる瞳や触れてくる指先から分かるんだ。

(壊れ物みたいに扱われるのは嫌いじゃない)

なんでもない、と言うように俺は額を押しつけたまま首を横に振る。
ネコみてぇ、と笑いを含んだ低い声が耳の近くで響く。

イイ声してるなぁ、相変わらず。


俺はけっこう阿部の声に惚れてるかもしれない。

耳元で囁かれるときはもちろん、ミーティングのときとか、うっかりしてたら聞き惚れてしまうことがある。


「さかえぐち」


深みのある低音は俺を深淵へと誘う。

堪らずに冬でも日に焼けた、香ばしさが匂い立つような首筋にかぷ、と歯を立てる。

「ってぇ」と阿部が微かに声を上げる。圧し殺されたそれはやっぱりイイ声だった。

もっと聴きたくて、より強く、深く歯を立てる。


「ーーっ、」


背中の手がぎゅっと俺のカーディガンを掴む。

身を固くして痛みに耐える阿部は、どこまで俺を許すのだろうう。


ーー知りたい。


「あべ、」


けれど、知ってはいけないーー。


ごめんね、と呟いて赤く鬱血した歯形に舌を伸ばしペロリと舐めた。


「ーーんっ、ぁ…」


なんて声だすんだよ。


「あべのばか」

「ンだよ」


ホンの少し掠れた声が色っぽい。

どんな顔をしているんだろうと視線を上げると、黒い、どこまでも黒い艶やかな瞳と目が合った。



ーー衝動のまま、首の後ろに両手を回して抱きつく。


「阿部なんて大嫌い」


嫌いだって言ってるのに、感情の波一つ立てないで、穏やかに笑って抱きしめ返してくれる阿部に俺は救われながらも、より深い処に堕とされる。

瞳を閉じて阿部の温もりに身を委ねる。あぁ、もう…涙が勝手に出てきた。


「栄口……泣くなよ」

「阿部、ーー」


ゆっくりと目蓋をあげて阿部を見つめる。

濡れた瞳がどんな効果をもたらすか俺は知っていて、睫毛の先の涙の雫までも利用するんだ。


もう少し、

ーーもっと、

ーーずっと、

阿部と一緒にいたいから。


「もう少し。もう少しだけ、ここに居て」


阿部の視線が一瞬、俺の斜め後ろの上方に流れた。

狭い部室のそこにあるのは古びた壁掛け時計だ。

昼休みはもうそんなに残っていない筈ーー。

阿部が昼休みに三橋に会いに9組に行く予定だったのは水谷から聞いて知っていた。

ーー知っていて、昼休みに阿部を部室まで呼び出した。

あべぇ、と甘えた声を出して体を密着させていたとき、阿部のポケットの中でケータイのバイブが短く震えてメールの着信を告げたことも俺は知っていた。


メール、三橋からだったのかな?

阿部くん、来ないの?って、不安になった?

あのね、三橋。栄口くんはいい人なんかじゃないんだよ。

三橋が阿部を待ってる間中、俺は阿部の名を呼び続けて引き止めているんだ。


「分かった。お前の気が済むまで居るよ」


だから、もう泣くなって柔らかい声とともに、涙を拭ってくれる手が愛しくて哀しい。

阿部は、自分がいないとダメな人間に弱いだけだと知っているからーー。

俺はこの手の温もりを得るために、これからも何度だって三橋の信頼を裏切るんだ。

阿部に会うまで、俺は自分がこんなに利己的な人間だなんて思いもしなかったよ。

俺は嘘つきで卑怯で汚い人間なんだ。

震える指先で阿部のシャツの裾を掴む。


「栄口、大丈夫か?」


阿部、阿部。

ごめんね。

自分でもどうしようもないんだ。


「昼休みが終わるまで側にいてーー?」

「おう」


短い答えに迷いはなかった……と思う。

阿部は最終的には情に脆いヤツだから。


「お前、震えてる。寒いのか?」


頬に触れる、阿部の指先に灯る熱を全身で受け止めたいと願ってる俺は欲深くてやらしい生き物だ。


「ちょっとね、でも平気」


阿部が居てくれるなら。

阿部の手に手を重ね、瞳を閉じて微笑んだ。




* * *

栄口くんの誘惑に負けてしまえ!

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