long・水栄
□仮初めの恋人 5
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涙を堪えて笑ってみせていた栄口の喉がコクりと上下に動き、飲みきれなかった白濁が唇の端からつぅっと垂れるの見たとき、俺の中でも何かが壊れた気がする。涙を溢すまいと見開いた瞳に阿部はどんな風に映ったんだろう。顔を背けて立ち上がった栄口は一瞬よろめいて、ロッカーにぶつかったけど直ぐにドアに向かって駆け出した。
追いかけようとして、ーー思いとどまった。
あんなことしてるの、……見られて、別の名で呼ばれたのを聞かれたなんて知ったら、栄口はもう俺に笑顔を見せてくれないんじゃないかってーー。
それとも、まだ痛々しく笑おうとするのかな。
そんな顔、俺は見たくないよ。
無理に笑わなくってもいいから。
俺がいつでも、泣き場所になるから。
俺じゃ、ダメなの?
ーーーーーーこんなにも、心臓が千切れそうなくらい好きなのに。
なんで、俺を好きになってくれなかったのーーー?
そしたら、こんなツライ想いをさせないのに。
ーー何もかも、阿部が悪いんだ。
一体、何の権利があって栄口を泣かすんだよ。
栄口はこの世で一番幸せになっていいヤツなのに。
怒りが込み上げてきて後先考えず
に部室の扉を開けた。
うつむいて服を整えている阿部の姿にカッとなって、気がついたら馬乗りになって、拳を振り上げていた。
阿部は抵抗もせず、目を閉じて殴られるのを待っているよだった……。
ざけんなよっ、お前。
固く握っていた拳を開くのに、ものすごい意思の力を必要とした。
こんなヤツ、思いっきり殴りつけてやりたい。
どんなにかスカッとするだろう。
けど、殴られたがっているヤツを殴ってやるほど俺は優しくない。
「殴らないのかよ……」
黒い瞳が開かれた。ぽっかり空いた穴のようだと思った。
「はっ、俺に殴られたらそれで許されるとでも?」
「ンなこと思ってねぇよ……」
だけど、殴って欲しいんだろ。
阿部の心を軽くしてやるために指一本動かすつもりはない。
責めることも詰ることもしなかった、栄口の無言の叫びがお前に聞こえたなら、消えることのない罪の意識を背負い続けるがいい。
掴んでいた胸ぐらを離して阿部の上から退いた。
部室の綺麗とは言えない床に横たわった姿からは、いつもの不遜さは微塵も感じられなかった。
「お前はバカだ」
お前が望むなら、栄口は最高の親友にも、最愛の恋人にもなっただろうに。
「ねぇ、教えてよ。そんなに自分だけの投手が欲しいの?」
野球って、投手と捕手と打者だけで成り立つスポーツじゃないって知らない訳じゃないよね?
お前のサインどおりに投げる三橋を後ろから見ている栄口がいて、
その栄口の後ろ姿を見つめてる俺がいるーー。
投手と捕手の間だけでボールのやり取りしている訳じゃないだろ。
あの小さな白球にはそれぞれの想いが込もってるんだよ。
捕手と投手だけで完結する野球なんてないんだよ。
自分を裏切らない投手の幻に心を奪われて、栄口を踏みにじった阿部を俺は許せなかった。
手に入れようと足掻いても足掻いても手に入れられなかったものを、何の苦労もなく手に入れておきながら、ボロボロに傷つけた阿部が憎かった。自分自身の報復のため、弱った栄口の心につけこんだ俺もまた、罰を受けるのは当然なのか。
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