∽NOVELS∽

□柔らかな鎖
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手を
手をのばして
お前の方から




【柔らかな鎖】




ぬるい風が頬を撫でる。
少し大きめの白衣をたなびかせながら、徹平は撮影現場近くの芝生を歩いていた。
暖かな陽気に、雑草が青々と茂っている。
徹平の毎日は順調だった。
ドラマの撮影現場では共演者もスタッフもよくしてくれるし、自身の演技も好評で、充実した日々を過ごしていた。
今は演技のことだけを考えていればいい。余計なことを考えなくてもいい。
気楽だった。
あれから瑛士とは顔を合わせておらず、連絡すらとっていない。彼は彼で仕事でいろんなところを飛び回っていたから、それは無理もないことだった。
それでいい、と思った。
…春なのに、泣きそうだ。
「おい、ワッツのウエンツ。」
背後から、笑みを含んだ明るい声が聞こえた。
けれど呼ばれたその名前は、徹平の胸をぎゅっとつねりあげて。
「もう、いいかげんやめてくださいよ、そう呼ぶの。」
振り向くと、浅黒い顔いっぱいに笑い皺を刻んだ坂口が、白衣のポケットに両手を突っ込んで立っていた。
徹平の顔を見て、その皺がすぐに薄くなった。
「…どうした?」
「え?」
「鼻。赤くない?」
泣いているつもりはなかったから、少し驚いて顔を伏せた。
「え、なんだろう。花粉症ですかね?」
むやみに明るい声で、ごまかすように答える。
「ですかね?自分でわかんないの?」
「急になるらしいじゃないですか。今年からデビューかな。」
へへっと笑って、まばたきをした。
涙はこぼれなかった。
よかった。
「それはご愁傷様。」
「はい。」
徹平は思いっきり口の端を引っ張り上げて、最大級の笑顔を作ってみた。
坂口が、少し困ったように笑った。
「大丈夫?」
「大丈夫です。」
「今日この後も仕事あるんだろ?」
「…はい。」
ドラマの撮りが終わり次第、お台場に駆けつけてバラエティの収録。
そう。
瑛士と顔を合わせなくてはいけない。
口の端をあげたまま、目から笑みが消えた。
おそらく、事情を知らない坂口にも、その表情が悲しみによるものだとわかるだろう。

この人は、俺とあいつの関係を知ったらどんな顔するんだろう。
驚くだろうか。
蔑むかな。

「徹平。」
「は、はい。」
名前で呼ばれ、徹平は小さく肩を竦ませた。
突然、坂口はポケットから硬貨を取り出し、徹平に見せた。
「ここに百円玉があります。」
「…はあ。」
きょとんとする徹平の目の前で、坂口はつまんでいた百円玉を指で弾いた。
勢いよく宙に浮いて、銀色がくるくると回る。
それをすばやく両手で挟み込み、左右の手を握り締めながら引き離して、徹平の前に差し出した。
「どっちだ。」
あまりの早業に、徹平はまだ宙を見つめたままでいた。
その先に、相変わらずさわやかに微笑む坂口の顔がある。
あわてて視線を落とし、左右のこぶしを見比べた。
けれど、分かるはずもなく。
「…こっち!」
勘で、右手を指差した。
「ブー。」
開かれた右手の中には、何もなかった。
「ええ、じゃあ、こっち?」
「ブブー。」
同じように左手を開く。しかし、その手の中もからっぽだった。
「…あ、あれ?」
「答えは、見えるところにあるとは限らない。」
坂口は再びポケットに手を突っ込むと、徹平に背を向けて歩き出した。
「あ、え…坂口さん!」
「そろそろ次のシーン始まるぞ。」
自分よりも広い歩幅で歩く坂口を、徹平は早歩きで追いかけた。
「どこ行ったんですか、百円!」
「今度教えてあげるよ。」
「ええー。」

見えないところにある答え。
そんなの、分かるわけないじゃないか。
…見えないんだから。

うつむいて歩いていたら、いつの間にか坂口が横にいた。
坂口の手が、徹平の頭をぽんぽんと叩いた。
「…な、なんですか。」
「治るといいねえ、花粉症。」
「治りませんよ花粉症は。今の薬じゃ。」
「あ、そうか。」
「朝田先生、治してくれますか?」
「俺は外科医だ。」
「あ、そうでした。」
「俺の出る幕じゃないよ。」
そう言って、もう一度軽く徹平の頭を叩いた。
どこまでかは別として、気づかれているのかもと思うと、なんだかまた少し情けなくなった。
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