鏡花水月
□桜月A
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睦月の十五夜の晩のことである。
雲が情緒的に月を隠し、優しく演出していた。冷たい夜気、まだ蕾の多い桜、優しい光。一枚の絵のような夜だ。
松柳は良い心持ちで、風に当たっていた。お客が取れなくて、ただ、窓から外を眺めていただけだったのだが。
「松柳、」「…へえ」
店主に呼ばれ、襖を開ける。もう月も上がりきる頃なのに、何の用だろう。
「御指名、美少年から。初めてのお客や、しっかり掴んどき。」
──冷やかしなんじゃないの。大体、美少年って。
直ぐ行く、と返事をして支度した。
声をかけて部屋に入る。窓枠に寄りかかって、手酌で飲んでいるまだ若い男が一人。部屋の灯りが消され、月の逆光で顔はよく見えない。
「御指名ありがとうございます。松柳にございます。」
「ふふ、そう堅くなくていい」
男にしては高め、それでいて落ち着いた声。近付くと、整った顔立ちが浮かんだ。確かに、美少年。
細く綺麗な手が形の良い唇に杯を運ぶ。その仕草が、なんだか艶めかしく感じた。息を飲む美しさ、というか。
「松柳か…良い名だ。ああ、君も飲まないか。折角の十五夜なんだ。花見にはまだ早いが、桜も少し咲いていることだし。」
音もなく杯を差し出され、彼と同じように窓に寄って受け取る。酒を注がれたとき、強めの風が吹いた。咲いたばかりの桜の花弁が一枚、舞い込む。
「おや…入った。」
彼の杯に花弁が落ちた。優しく微笑む彼に、釘付けになる。
こんな良い男、どこで知り合ったのだろう。記憶にない。だが、店主は確かに指名と言った。誰かにきいて来たのだろうか。
……まあ、いい。久々の新規の客なんだ。それが自分好みの美男子なのだから、喜ばしいことだ。
最近は武骨で男らしい客ばかりだった。見たところ金は持っていそうだし、必ずや常連になって貰わなくては。
しばらく、二人で月と桜を肴に酒を飲んだ。彼は聞き上手で、話すのが楽しい。
時間があっという間に過ぎていく気がした。気づけば一刻は経っている。
帰るかな、と男が立ち上がったところで、松柳は肝心なことを思い出した。名前を聞いていない。
今更、どうやって訊けばよいものか。