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□どうせなら、香ばしい憂鬱を
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!学園パロディ
嘘みたいに澄みきった空だ。
屋上は思いの外がらんとしており、グラウンドから響く平和な午後のざわめきが、頼りない風に乗って途切れ途切れに聴こえてくるだけだった。
ペンキのはげかかった白いフェンスにもたれ、タイを緩めながら空を見上げる。秋の空は、肌寒い風の寂しさとは裏腹に、悲しいほど澄みきっている。
何故だか、気持ちは天気に比例するように思っていたが、どうやらそうでもないらしい。そんなことを思いながら、職員室や教室では自ら禁じているため息を、密やかに吐いた。
『ねぇ知ってる?アグニ先生、高校時代凄かったらしいよ。相当荒れてたみたい。』
『うっそ、まぢで!?えー…ショック。私、先生結構好きだったのにー。てか生徒指導とかもやってるでしょ?そんなの自分はどうだったの、って話になるじゃん?』
『ねー。なんか、裏切られた気ぃするよねぇ。』
『ほんと、それー。』
午前中、たまたま廊下で耳にした生徒同士の会話が、今日一日、耳に残響したまま一向に消えない。
自身の過去に関しては、恥ずかしながら事実であり、それを回りの先生方にとやかく言われることには慣れていたし、当然のことだと思っている。
しかし。
しかし、生徒からの言葉がここまで身に染みるとは。
胸の辺りが、ちょうど秋風に晒されたように冷たい。それは、ざわざわと音を立てて、心臓に近い場所を吹き抜けて行く。
そんな気持ちに耐えかねて。耐えかねて、広い景色を見たくなったのに、あまりに澄みきったスカイブルーを目にした途端、何故だかすっかり気が抜けてしまった。
それでも、雨さえ降っていなければ、屋上は格好の逃げ場所だ。
「?」
卑屈な気持ちでズボンのポケットに手を突っ込むと、ヒヤリと冷たい物体が指先に触れた。不思議に思ってポケットからそれを取り出してみると。
「…ああ、」
固くて、つるつるとしたそれは、午前中ある男子生徒から没収した煙草だった。華奢なゴシック体で書かれた英語の文字を親指で辿る。
「マルボロ、」
かつては、自身もこんなものに逃げていた時期があったのだ、と、まるで他人事のように思い出す。すでに何本か抜かれた箱の中から、何気無しに煙草を一本抜き取り、箱をポケットの中にしまい直した。
人差し指と中指の間で軽く弄び、細いそれをそっと口元へと持っていく。しかしながら、何年か前の採用試験の際、この際だからと、煙草を絶ってしまったものだから、当然ライターも持ち合わせていない。
「……何をやってるんだか、」
自身の滑稽さに苦笑し、再び煙草を指に挟み、フェンスの上で頬杖を付く。こんなものに逃げていられた頃は、まだ守られるべき立場にあったことを今更ながらに思っていると、後ろから声が聞こえた。
「あれ?アグニ先生?」
ですよね?、と、控え目に付け足され、声のままに振り返る。するとそこにいたのは、授業を受け持っているクラスの女子生徒で。
私が振り向くと同時に、やっぱり、と安堵したように笑い、どこか軽やかな足取りで此方へと近付いて来た。
確か、三組の、
彼女の名を思い出している間に、私と少しの距離を置き、フェンスに手をかけた彼女は、此方を伺うように首を傾げた。
「いっぷくですか?」
「あ、いえ…、」
彼女に指摘され、指の間の煙草の存在を思い出す。慌てて曖昧に言葉を濁す私に、彼女は、意外ですね、と特に感情を込めずに口にすると、何やらごそごそと、持参してきたらしい箱を徐に開けはじめた。
「私もいっぷくです、」
「え?」
「いっぷくはいっぷくでも、私はこれなんですけどね、」
へへ、と学生らしい幼い笑顔で私に見せたのは、スティク状のチョコレート菓子で。
「ポッキー、ですか。」
「はい、」
「安心しましたよ、」
「はは、まさか煙草はないですよー、」
「だって貴女が、いっぷくなんて言うから、」
いっぷくはいっぷくですもん、と笑いながら、彼女は小気味良い音をたててスティク菓子を頬張った。その音に共なって、ほんの少し香ばしい香りが空気中に弾ける。
「ん、美味しい。」
「………、」
まだ幼い横顔は、グラウンドに向けられているようで。彼女が音をたてて菓子をかじる度に、自分の沈んだ思考も、プツ、プツと途切れた。シャボン玉が割れるように、プツ、プツ、と。
彼女も何かしらから逃げて、屋上へと来たのだろうか、とぼんやりと考えていたら、何本目かの菓子をくわえようとした彼女がふいに此方を向く。
「……吸わないんですか?」
「……あ、…いや、」
不思議そうに首を傾げる彼女に、あれこれと説明するのも億劫で。実は、と煮え切らない言葉をまごまごと口にした。
「ライターが手元になくて、」
「…そう、ですか、」
彼女は相変わらずきょとんとしたまま、先程のように何の感情も込めずに頷いた。そして、一旦口に運び損ねた菓子に目を向け、しばらく指の先でくるくると回し、それなら、と呟き私の方へと菓子を差し出した。
「今日は、かわりにこっちにしません?」
「え?」
「ポッキー。嫌いですか?」
「…いや、」
「じゃあ、ハイ。」
「…………、」
今一度差し出された菓子を、どうも、と素直に受け取ってみる。
煙草を箱にしまい、細い菓子を口へと運ぶ。すると軽い音と共に、香ばしさとチョコレートの甘さとが、今度は自身の口のなかに小さく弾けた。
食べなれたチープな味ではあるものの、気負わないその甘くて香ばしい味に、自然と頬が緩むのを感じた。
「久しぶりに食べましたよ。こういうお菓子。」
「そうですか、」
彼女は彼女で、再び赤い箱から菓子を取り出し、口に挟む。彼女の口元は、何かを考え込むようにキュッと結ばれていた。
しばらくたって、彼女は視線をグラウンドに向けたまま、躊躇いがちにおずおずと口を開いた。
「なんていうか…落ち込む度に、煙草吸ってちゃ体によくないですからね、」
「……、」
「たまには、甘いものもいいですよ?…私は、すごく単純だから、甘いものでも食べると気持ちがすぐ上向くんです。」
だから、と彼女は躊躇いがち呟き、横顔のままどこか不器用に微笑んだ。
「先生も、そうだといいなー、…なんて。」
途端、胸の奥でつっかえていたものが、ほろほろ崩れ始めた。つんと鼻が痺れ、目がじわじわと熱くなるのを感じた。
「………っ、」
彼女の飾らない言葉に、信じられないほど喉が震えた。
「……そう、ですね、」
彼女の言葉に、平然を装い返事を返すのが精一杯で。気を抜けば、情けないけれど、泣いてしまいそうで。喉の奥に、潤む目元に、グッと力を込める。
「たまには、甘いものも悪くない、」
「でしょう?」
「えぇ。……ありがとうございます。」
「へへ、イエイエ。」
お互いが、お互いの顔を見れずに、前を向いたままでたどたどしく話を紡ぐ。それでも、彼女がくすぐったそうにはにかんだのが、ほぐれた空気によって微かに伝わった。
不意討ちに訪れる悲しみにも、思いがけなく触れる優しさも、どちらにも弱い情けない自分がいて。当然救われる自分もいて。
それでもきっと、忘れた頃に訪れる悲しみに、その都度自分を試されながら、歩いていくのだと。
それが、日々なのだと、香ばしい甘さを舌に感じ、そんなことを思う。
容赦のない日々だ、と思う。だけども、ぎりぎり立ってさえいれば、情けもある日々だ、とも思う。
そんな思案に暮れながら、菓子を食べ終えると、それを見計らったように再び菓子が差し出された。
「あ、もういいですよ?」
「そう言わずに。私、いつも余らしちゃうし…、」
「…でも、」
「…じゃあもう一本は、次のテストの袖の下ってことで、何卒。」
「ははっ、ちゃっかりしてますね。」
私につられ、快活に笑う彼女に、スッと目を細める。ではいただきます、と促されるままに菓子を受け取り、空を見上げる。
「…そうですねぇ……、」
再び目に映した空は、不思議と穏やかで。そしてそれは、自分自身の心が変化したからだ、と思われる。
良い天気だ。ゲンキンな自分だ。
おかしくなって、フッと笑みが漏れた。ついでに、肩の力もすっかり抜けてしまった。
「考えておきましょう。」
教師の口調で神妙に頷いて見せれば、彼女は青空によく似合った軽やかな声でカラリと笑った。
つられて笑いながら菓子をかじれば、憂鬱の弾ける音が聞こえた気がした。
どうせなら、香ばしい憂鬱を
(カリリとかみ砕いて、咀嚼したなら)