アグニ/短編

□々
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しんと静まり返った調理場は、やけに心許なく。普段は一人で過ごすことが多い調理場に、今更ながらの感傷を抱いてしまうその原因は、恐らく先程まで自分の後ろにいた少女にあった。

「……はぁ、」

彼女が調理場を嵐の如く後にしてから、何度目かになるため息を吐く。目の前には、照明の光を一身に受けペカペカと輝きを放つティーカップが、二つ。

『頭が、重くて…』

ソーマ様の命を受け、チャイをお願いできますか、と調理場へ入って来た時から、彼女はどこかぼんやりとしていて。その様子が、何故だか思い詰めているようにも見てとれ、不思議に思って声をかけた。

しかし、何かに思い詰めるその眼差しや、きりりと一文字に結ばれた形の良い唇は、酷く、女性らしく。いつもの彼女から感じられる柔らかな雰囲気とは違う、凛としたその瞳に、何故だか心がチクリと痛んだ気がした。

案の定、自分の声で我に反ったようで、慌て目を泳がせる彼女は、普段通りで。

それでも、先程までの密やかな胸の痛みは広がるばかりで。自分が知っているはずの彼女が遠く、遠く思えて。

気がつけば、その存在を確かめるように、彼女の頬に手を伸ばしていた。

「っーーーーー!!」

かぁ、っと頬に熱が集まる。無意識に握りしめた布巾が手の中で形を変えた。

近ごろ、無意識に動く身体に、自分自身ヒヤリとさせられることが多い。かつて、王子が負けてしまうと思ったら自然と身体が動き、まだ幼いシェル様の死角をついてしまったことや、先程のこと、や、

「……しかし無意識とはいえ、無防備な女性に触れるなどーーーっ、」

思い詰めたら、心の内をつい口に出してしまうこと、等。
しかし、のぞき込んだ彼女の瞳は、しっかりと、己を見つめていた。ようやく、こちらを見てくれたような気がして、どこか心が満たされるのを感じたのだ。

とはいえ、触れた彼女の頬は僅かに熱を持っており、途端、風邪の類い、あるいは疲労によるものではないかと心配になる。それに、彼女が私を真っ直ぐに見つめてくれたことで、心がどうにも浮わついていたのだろう。

『後で寝室にジンジャーティーをお持ちいたしましょう。』

『ごめんなさい!!結構です!!ごめんなさい!!』

「っーーーー!」

かつて何かの申し出をあんなに必死に断られたことがあっただろうか。そして、それによってこんなにも地の底にでも突き落とされたような衝撃を受けたことがあっただろうか。

「嗚呼!どんな理由があれ、女性の寝室に足を踏み入れるなど、」

ただ純粋に彼女の体が心配である。その気持ちに嘘はない。誓って。しかしながら、そこに微かな私情も入っていないのか、と問われれば、答えは、否、だ。

彼女に触れた左手をぼんやりと眺めてみる。いつも自分やソーマ様の近くでふわふわと笑っている彼女を、あんな表情にさせる何かが、気になって仕方がない。果たして風邪や疲労が原因なのだろうか。もしや、もっと他に何か悩みや不安のようなものではないのだろうか。

当然、左手の上には答えはない。でも、

知りたい、なんて。

「…私は…何を、考えて…」

この手も、この心も、全部全部、ソーマ様のために。

誤魔化すように左手から目を反らせば、ちょうど湯が沸いたようで。チャイの準備に取りかかる。用意した二つ目のカップのことはあえて考えないことにした。
先程彼女に触れた理由が、ただの心配や配慮の言葉では片付かないことに、薄々気付いてゆく自分自身が恐ろしく、そんな自分を振り切るように廊下を進む。

彼女を知りたい、だなんて。

ましてや愛しい、だなんて。

しかし、気付けば手元の盆にはチャイの隣に、ジンジャーティーがお行儀良く湯気を上げており。無意識とは、なんと恐ろしいものだろうか。ここまでくれば観念するしかないのかもしれない。認めてしまうしか。

「…同じ主に使える友人として、という面目なら、許されるだろうか…」

相変わらず往生際の悪い自身の小さな呟きに苦笑して、まずは、と、主の部屋をそっとノックした。


(ん?顔が赤いぞアグニ。熱でもあるのか?)
(い、いえ!ぎりぎり大丈夫でございますソーマ様!)



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