アグニ/短編
□私達の帰趨
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!アグニ姉設定
またひとつ、三十路へと近付いてしまった。
開け放った窓から入り込む生温い初夏の風に体を撫でられ、否、と思い直す。
明日からはそんなことを考えなくてもいいのだ。年をとるごとに付き纏う結婚の二文字は、明日でやっと、形となり、事実となる。
「…私もやっと人妻か、」
艶のある響きも私にかかれば健全な事実しかない、と一人クスクスと笑いを漏らす。
そしてそのあとに、本当に愛する人の妻になれたらな、なんて、もうどうしようもないことをオプションとして考え、マリッジブルーを気取っていると、ノックもなしに、ド派手な音を響かせて自室の扉が開かれた。
なんなの、人がマリッジブルーに浸って哀愁的なものを噛み締めている時に。
いつもは反射的に開く口が、今は機能せず開かれたには開かれたが、声も言葉も出なかった。
「…姉、上……、」
「…アルシャド…?」
5年振りに見る弟の顔が、いびつに歪み、そこにあった。彼の右手に握りしめられた花の香りが、いっせいに部屋に甘く香った。
私が18の頃だろうか。
大好きだった弟が、突然、グレた。
歌留多をひっくり返したような彼の豹変っぷりに私も回りも唖然とするばかりで。いつ、盗んだバイクで走り出しても決して可笑しくはない彼の荒れ様は、半端ではなく。そんなだから、彼の悪事が世の目に止まるまでには、そう時間を要せず。あれよあれよという間に、処刑の宣告までがなされる始末。
しかしどこぞの王子様の気まぐれで彼の命は繋ぎ止められ、今は更正、好青年。昔のように笑う彼の姿があるとか、ないとか。
これらは全て屋敷の侍女たちから聞いたお話。私と彼は、かれこれ5年ほど、まともに顔を会わせていない。それ故、更正、なんて。あまりピンとこない。
それというのも、今は昔。こんな私にも恋するお方がおりまして。弟と共にすくすく育ち過ぎたような背の高い私を、子猫のように愛してくれた、優しい方がおりました。
しかし結婚前に一族からでた罪人。血の繋がる弟となれば、言語道断、婚約破棄。泣く泣く別れたかつての恋人は今、私とは逆のタイニーな女性を妻にむかえ、形式的な幸せを手に入れた。
健気な弟はさすがに姉に会わせる顔もないらしく、こうして私の誕生日に毎年こっそり花束の贈り物。さながら、ごんぎつねのような律儀さに思わず涙が、
「出るわけないでしょう。」
「…………全く、です。」
向かい合って座る彼は、私の言葉に俯いたままに同意をしてみせた。彼の言葉を鼻で笑い、私は頬杖を付いたまま目の前の菓子に手を伸ばす。彼が手土産に持ってきた、ナッツだ。
私はナッツを食べる隙に、乾いた粘土のように表情を固くする目の前の弟を盗み見る。
「髪を切ったのね?」
「…え、あ、…はい。」
少しでも表情を変えればみるみるうちにボロボロと崩れていきそうな弟は、小さく頷いた。
綺麗だった髪が短くなった。
しかしながら、真面目な眉、銀色の睫毛、実は優しい目元はあの頃のままで。
しかし、
「誕生日になると毎年花を送ってくれていたけど、姿だけはちっっとも見せなかったのに。」
「………あ、」
「何でまた今年は、私の前に現れたの?」
「……それ、は…、」
「というか、どの面下げて、私の前に現れることが出来るの?」
「っ、」
「冗談よ。」
彼の表情がみるみる幼いころのように泣き出しそうになるものだから、少し言い過ぎた、と肩をすくめて笑ってみせる。
彼は勘違いをしているようだが、私は彼を憎んではいない。正確には憎み切れていない、わけだが。
そりゃ、婚約が破棄されたときには、少なくとも弟のせいだとも思っていたし、悔しくて悔しくて涙に暮れていたけれども。
彼を憎むまでには至らなかった。彼を憎むには、あまりに彼との楽しくて目映い思い出が多すぎたのだ。
「嬉しかったのよ。毎年送ってくれる花束も、お菓子も。律儀なあんたらしくて。」
「姉上…。」
「ちょっ、泣かないでよ!あんた見かけによらず感動屋なんだから。」
「な、泣いてなど、おりません!」
幼子のように鼻をすする彼を見て、相変わらずだな、と息を吐く。そう、このこはいつだってとても優しいのだ。
「……で?どうしたの?」
「え?」
「私に後ろめたいとか思ってそうなあんたが、わざわざ顔を見せてまでここに来た理由よ。私に言いたいことがあるんじゃないの?」
ナッツを摘まみながら問えば、彼は少し言い淀むように目を伏せた。彼の口が『こ』の形になる。
「…ご結婚、なさるとか。」
彼の口から紡がれた『結婚』の二文字は、どこかよそよそしく響き、私は今一つピンと来なくて、ナッツを唇に当てたまま暫し彼をぼんやりと眺めてしまっていた。
「…姉上?」
「え?あ、そう。結婚。やっとね。」
不思議そうな彼の声に促され、ようやく返事を返しナッツを口に放り込む。てっきり折り返し直ぐに、おめでとうございます、の返事が返って来るのかと思いきや、彼はだんまり黙ったままで。
「…なによ。」
「いえ…、」
相変わらず煮え切らない返事に、私は目だけでその表情の理由を問う。
すると彼は、未だ煮え切らないままに、おずおずと口を開き、そろりそろりと言葉を紡ぎ始める。
「……相手の方は、どのような方なのでしょうか?」
「は?」
思いもよらなかった彼の言葉に、思わず間抜けな声が出た。
「どのようなって……普通よ、普通。普通のお金持ちのおじさん。」
「性格は?穏やかで優しい方ですか?!」
「え?…そうねぇ。基本的に。」
「基本的に!?はっ!もしかしてお酒が入ったら乱暴になったりなど…!?」
「し、しないわよ!ちょっと陽気になってセクハラが入るけども、許せる範囲よ。」
「女ったらしなんてことは…!?」
どんどん激しくなる質問攻めに、私は面食らったようにおどおどとしてしまう。彼の目が怖い。本気すぎて、怖い。