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□【執拗に甘い地獄】
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「先生、目どうしたんですか?」
担任のネイガウス先生が左目に眼帯を着けて教室に現れたのは、中学の卒業式を明日に控えた日のことだった。
クラスメイト達は感傷に浸りつつも、新しい生活に夢や希望を抱き明るい表情を浮かべていた。
「ああ、少しな…」
包帯に包まれた左目を擦りながら先生は出欠を確認すると、「次は自習だ」と告げて早々に消えてしまった。
元々無愛想な人だったけれど、ここ最近はそれに拍車がかかり顔色も悪くなってきたように思える。
しかし、あまり彼を慕う生徒は少ないためかクラスメイト達は労わりの声を上げる者は少なかった。
「ねぇねぇ、雪ちゃん」
「あ、おはよう杜山さん」
「ネイガウス先生って最近よく怪我してるけど大丈夫かな?」
そう言われてみれば今日に限らず、年明け位から腕や頬に生傷が耐えなかった気がする。
「先生ケンカする人には見えないし…もしかしてドメスティックバイオレンス!?最近は男の人も被害にあってるだって!!」
心配そうにワタワタと慌てだすクラスメイトに苦笑を漏らす。確かに先生は人付き合いが悪く誰かと一緒にいるのすら見たことがないような人だった。
「先生の奥さんは大分前に亡くなったはずだよ?」
「え、そうなの!?じゃどうしたんだろうね?」
「何かスポーツでも始めたんじゃないかな?」
「そっか!それなら怪我することもあるもんね」
世間知らずな彼女は僕の言った適当な憶測を信じてくれたようだった。
あの先生が怪我をするほどスポーツに打ち込む姿なんて想像もつかなかったけれども、さして興味のない僕には適当な憶測で疑問を埋めるので充分だった。
【必要に甘い地獄】
クラスメイトたちがほとんど下校した放課後、突然教室の扉が開かれた。
「しえみ、雪男!はよぉー」
「あ、燐!もう夕方だよ」
「まぁまぁ、来ることに意味があるんだよ♪」
悪びれもせず笑いながら僕の隣の空いていた席に腰を下ろし、燐は教室をキョロキョロと見回した。
「何だよ、みんな帰ったのか?」
「新生活の準備で忙しいんだよ」
「だよなぁ。帰ろっかなぁ…」
もともと授業をほとんど受けていなかった燐は何故かここ最近は遅刻はするものの毎日に登校してきていた。
特に親しいと言える間柄ではなかったけれど、同じ苗字だったため何かしらで一緒に行動することが多かったので何となく彼のことが気になっていたのかもしれない。
入学当初こそ喧嘩ばかりしていて手に負えない問題児と評されていたが、いつの間にかそのなりを潜め、今では普通の中学生だった。
「はいはい、でも今日は燐と僕が日直だからこれ書いてから帰ってもらうよ?」
「げっマジかよぉ…何で最後の最後に」
「むしろ今までまともに書いたことないんだから最後くらいちゃんとやりなよ」
多分、筆記用具すら持ってきていないのだろう彼にシャーペンと日誌を手渡すと、嫌そうな表情を浮かべながらも大人しく受け取ってくれた。
「そうだよ燐、雪ちゃんに迷惑かけちゃダメだよ!」
幼い子供を叱るようにそう言うとしえみさんは自分の鞄を手に持ち帰宅の準備を始める。
「なんだよ、そういうしえみは帰んのかよ?」
「違うよ、温室の手入れ!最後だからみんなにお別れ言わなきゃ!!」
そう言っていそいそと彼女は教室を後にした。きっと彼女の言う「皆」ととは園芸部の部員達ではなく、植物達のことだろう。
しえみさんが去り、残された僕らはとりあえず日誌に取り掛かることにした。
これで日誌を書くのも最後だと思うと感慨深いものだった。
特に思い出もないけれど、無難な中学生活は平和で心地よいものだったといえるのかもしれない。
「なぁ、雪男って中学卒業したらドコの高校に行くんだ?」
「僕は聖十字学園に進学」
「スッゲー超有名学校じゃん!!そうだよなぁ、お前めっちゃ頭良いもんな」
ニコニコと自分のことのように喜ぶ燐の屈託のない笑顔が思ってた以上に可愛らしくて、心臓が思わずドキリと高鳴る。
「り、燐はどうするの?」
「俺は知り合いの料亭で板前修行」
「調理師の学校とかは行かないの?」
「あー、そういうの面倒くせぇし」
ほとんど学校にいない彼とこうやって話す機会は少なかったけれど、それでも彼とのこの微妙な距離感は嫌いではなかった。
粗野で煩いときもあるが必要異常に関わってこないところや、他のクラスメイトと距離を空けていることに親近感を覚えたのかもしれない。
ふっと燐に視線を向ける。西日が射し込み、長い睫が彼の顔に影を作っていた。
かさつくのであろう唇を赤い舌がペロリと舐める姿に、自分のなかの何かがざわつくのを覚える。
「なぁ…」
「ぇ、あ…何?」
自分のなかでざわざわと動き出した何かに戸惑いを覚えていたせいで、突然声をかけられ一瞬思考が停止する。
「何だよ、変な奴(笑)」
少し慌てた僕を見ながら笑う燐は「やっぱり何でもねぇ」と続けると、日誌を取り上げ立ち上げる。
「俺が先生に渡しとく、そのまま帰るからお前も帰っとけよ」
「また明日な!」とニッと笑いながら手を振り燐は教室を後にした。僕は彼のあの子供っぽい笑顔が好きだった。
あまりクラスメイトと馴染まない彼が自分にだけは無防備に笑いかけてくれることが嬉しかったのだ。
この笑顔が明日の卒業式を過ぎれば見れなくなるのはやっぱり残念だと思う。