小説(ただいま天国のみ)

□睡眠薬
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鬼男は閻魔を追いかけた。

足元を掬われそうな暗闇に浮き沈みする背中。

何度呼びかけても届くことはない。

自分のほうが脚は速いはずなのに、全力で走っても少しも近づかない

次第に息が上がっていく



どのくらい走ったのか

足がもつれ、

もうそれ以上進めなくなったとき、

伸ばした手の先、最期に目にするのは―――




『 睡眠薬 』




深夜の宿直室で鬼男は飛び起きた。

鼓膜の奥で自分の叫び声が反響し鳴り止まない。

心臓は脈打ち肩で息をしていた。

冷や汗をかいてべっとりとした身体が気持ち悪い。


傍らの敷布団に目を落とすと、様子見をしていたらしい同僚と目があった。

「…大丈夫?」

うん、と頷き小さく「ごめん」とつけ足す。

鬼男は自分の迂闊さに顔をしかめた。


閻魔庁には宿直勤務がある。

宿直員は当番制で、二人一組で庁内見回りを行った後宿直室に泊まる。

そもそも閻魔庁に夜間何かあった例はないし、

たとえ何かあっても閻魔が気づくだろう(それが彼の能力のひとつだ)から実際必要なのか甚だ疑問だが、

とにかく慣習としての宿直は年に数度回ってくる。


鬼男は今朝まで宿直当番に当たっていたことをすっかり放念していた。

ただでさえ日々忙しい秘書業務に明け暮れ、

大王の子守という労力だけはかかる仕事(ただ働き)を兼任しているのだから許してほしいところだ。…言い訳しても仕方ないが。

幸い夜に予定は入れていなかったのだが、鬼男はしまったと思った。

(睡眠薬を忘れた…)

鬼男が毎日欠かさず飲んで眠る睡眠薬は彼の自室の机の上だった。

宿直までに一時帰宅するのには無理がある。今夜は諦めるしかなさそうだった。


業務予定に「宿直当番」の表記を見つけ珍しく不覚の表情を浮かべた鬼男の横でなぜか閻魔はテンションが高かった。

両腕を後ろ手に組んで足をそろえ、さながら女子学生が意中の人を見上げるように腰を折って下から鬼男をのぞき込む。

「なになに?鬼男くん今日宿直なの?俺も一緒に…」

「気持ち悪い振る舞いをすな!」

いい加減いい年したおっさんの上目遣いやぶりっこに慣れてもいいはずの鬼男は、

それでも毎度丁寧に切れ味抜群のツッコミを入れる。

歳のわりに若作りだからなのか、色が白いからなのか髪が長めだからなのか、

実は閻魔がやるとどこかしら似合ってしまうことも問題だが絶対に言わない。

調子に乗られるから。


怒鳴られてしゅんとしている閻魔をめんどくさそうに目を細めて見やる。

「何言ってるんですか夜の見回りひとつ行けない人が」

「鬼男くんが一緒なら俺がんば「らなくていいから仕事してください」……泣」

この後閻魔と延々「ついてく」「来るな」の掛け合いをしているうちに早夜も更け。

駄々をこねる閻魔を無理やり、それこそちぎる勢いで引き離し。

鬼男はやっと宿直室に向かったのだった。


騒がしさから解放され、静まりかえった長い廊下に足音が響く。


別に不眠症を患っているわけではない。

同僚の中には閻魔庁勤務のストレスや過労から睡眠薬を使用する者もいたが、

鬼男の場合は眠れないわけではなかった。


―――ただ、夢を見るのだ。


いつからだろう

毎晩毎晩、同じ夢を見るようになったのは


おそらく異動で大王秘書に就任してしばらく経ったころだった。

悪夢にうなされ、決まって自分の叫び声で目が覚めるようになった。

真夜中に隣の住人に聞こえているのではないか、と真面目な鬼男は心配した。

近所迷惑を抜きにしても睡眠時間が確保できないのはつらかった。

仕事に直接支障はなくても夜が憂鬱になった。

昼間閻魔の何も考えていなさそうな呆け顔を見ていると

悪夢が正夢になろうはずもなかった。
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