氷帝×不二

□office*love
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跡部景吾。
彼は日本屈指の大企業の社長である。

で、僕はというと。
その本屈指の大企業の社長の秘書であり、幼馴染であり、恋人である。

一体誰が日本の域を飛び越え、世界を股に掛ける程の
跡部コーポレーションのカリスマ社長が男色趣味だと想像するだろうか?

けれど現実はそうなのだ。告白は景ちゃんの方からだった。



『大切な幼馴染としてでもなく、有能な秘書としてでもなく、お前を傍に置いておきたい。』



墓場まで持っていくつもりだった僕の強かで密かな想いは、
景ちゃんのこんな言葉によって、思いがけず成就することとなったのだ。

つまり両想いだったという訳だ。

永遠とも思われた片思いの末に結ばれた僕が舞い上がらないはずはなく、
泣きながら笑うめちゃくちゃな僕に、景ちゃんはただヒトコト。
照れたように『バカ』と言った。

とはいえ、世の中は夢物語ばかりでは終わらない。
カップラーメンや冷凍食品のように、シンデレラストーリーがそう易々と完結する程甘くはない。

なぜこんなことを言い出すのか。

理由は単純明快に複雑怪奇。
それすなわち、デスクに積まれた“釣書”。
つまり、見合い写真だ。



「クソッ…あの老いぼれジジイ」

「景ちゃん、口が悪いよ。実のおじい様でしょ?」

「っせぇーよ…」



チッと盛大に舌打って、景ちゃんは小刻みに机を叩く。

景ちゃんのお見合い話は実に多方面から舞い込んでくるけれど、
抜きん出てその話を持ってくる人物は間違いなく景ちゃんのおじい様。



「なにが孫のツラが見てぇだ…」



さも、忌々しい!と言いたげな景ちゃんは束の一番上に置かれていた釣書を手に取る。
いつもはここで、何の躊躇いもなくポイッ放り出してしまう。

が、今回の相手はそうもいかないらしい。
僕はついにこの時が来たか。と、どこか冷静に苛立つ景ちゃんを見つめていた。



景ちゃんと僕は恋人ではあるが、もちろん婚約はしていない。
交際さえ公にできない。

その手腕のみならず、人が羨む全てを兼ね備えたような景ちゃんが同性愛者?
こんなタブーはとんだスキャンダルだ。マスコミの良い餌食だ。

だから、覚悟は常にある。
いつだって別れを受け入れる準備は万端、と言っても過言ではない。

もちろん、景ちゃんにはこんなこと言えないけど。



「…くそっ…」



景ちゃんは眉間に皺を深く刻み、長いこと釣書と睨み合っている。
指先だけに留まらず、その長い足もトントンと床を叩く。

これほどに貧乏揺すりが似合わない人もいるのか、と。
この期に及んで、僕はどこか他人事のようにそんな景ちゃんを見ていた。



先日の取引先でのパーティーのこと。
パーティー会場で取引先の社長令嬢に見初められたのだ。
そして、取引先の先代から景ちゃんのおじい様経由でお見合いの話がやってきた。

こんなことは特に珍しいことでも何でもない。
ただ、これまでは この社長室でお見合い写真を放り投げた人物とは思えない丁重さで、
それらすべてを断わってきた。

だが、景ちゃんの様子からいっても、
これまでの跡部コーポレーションの事業からみても、今回ばかりはこれまでと同じようにはいかないだろう。
相手は跡部コーポレーション最大の取引先だ。

だから僕は意を決して、景ちゃんとデスク越しに向かい合う。



「…景ちゃん。なにも悩む必要なんてないよ。」

「…どういう意味だよ?」

「僕たち、もう別れよう。」

「嫌だ。」



僕の言葉を、景ちゃんは目も合わさずにあっさりと切り捨てる。



「景ちゃんっ!!!」



この縁談を断わるっていうのがどういう事か分かってるの!?
言葉はすぐそこまで出かっていたのに、言えなかった。

アイスブルーの瞳に見上げられた途端、
勢いよく水を流したホースを踏んづけたように、僕の咽喉は苦しくなってしまったから。



「………シュウは、別れてぇのかよ。」

「…………。」



僕は黙って俯いた。

本当は別れたくない。別れたくないに決まってる。
物心ついた頃には景ちゃんが好きだった。

思春期を迎える頃にはおかしい感情なんだ、と無理に女の子と付き合ったりもした。
それでも忘れられなかった。
きっとこんなにも愛しい人に、二度と巡り逢えないと思っている。

でも、だからこそ。
景ちゃんの未来を第一に考えたい。景ちゃんが困るような状況は回避したい。


なにより、景ちゃんは何万人といる社員の長なのだから。
ワガママばかりは言っていられない。
僕ひとりが諦めれば、それで済む。それだけの簡単なはなしだ。



「シュ―――…」



景ちゃんが何かを言いかけた時、ノック音がそれを遮る。
来客だ。

少ない荷物をそっと纏めて、客人と入れ替わるように社長室を後にした。

僕のデスクに私物はほとんどない。
違う、ないようにしてる。
こんな日が、いつやってきても構わないように。



「サヨナラ、景ちゃん…」



振り向いた社長室の扉は、まだ3歩しか歩いていないのにいやに遠かった。
泣いていた。
覚悟していたはずなのに、僕は泣いていた。

エレベーターの下りボタンをこどもの頃みたいに連打した。
その心情はまるで違っていたけど。

僕はエレベーターの中でわんわん泣いた。
どうして途中で誰か乗って来るかも、と考えなかったのか不思議なくらい思い切り泣いた。



「バカな僕…」



幾ら泣いても足りなかったけれど、
しばらくエレベーターの浮遊感に身を任せるうちに自然にそんな呟きが零れた。

それに、応える声があった―――…


「まったく、だな…っ…」

「景ちゃん!!?」



いつの間にかエレベーターは止まっていた。
息を切らした景ちゃんがエレベーターの扉を手で押さえていた。
ネクタイを片手で緩めながら、景ちゃんはツカツカとエレベーターへと踏み込んでくる。
僕は無意識に、一歩後退った。



「なんで、」



エレベーターは僕らふたりを乗せて再び降下をはじめる。
密室となった空間で、景ちゃんは僕ににじり寄る。

そのうち、ドンっと僕の背中が硬質な壁に突き当たって一度。
続いて景ちゃんが僕の顔のすぐ真左に手を付いて二度。
エレベーターが不安定に揺れた。



「こんなもの、受け取らねぇっ…からな…」



未だに肩で息をしながら景ちゃんは言った。
尋常じゃない汗の量と、その様子に、階段を駆け下りて追い掛けてきてくれたのだと思うと余計に涙が出た。

泣きっぱなしの僕の左耳に、紙が握りつぶされるような音が聞こえた。
僕が自分のデスクに忍ばせておいた辞表が握り潰された音であることに気付くのに、そう時間はかからなかった。



「お前の考えることなんざ、お見通しなんだよ」

「…っ」

「俺と付き合い始めたその日にこんなモン書きやがって…」



何だって見抜いてしまう眼力を前に、僕の目論みなど目論みですらなかったらしい。

景ちゃんの言う通りだった。
辞表は昨日今日書いたものでもなく、はじめてお見合いの話が来た日でもなく、
僕らが付き合い始めたその日に書いたものに違いなかった。



「可愛くねぇことしてくれるぜ…」

「だって…」

「しかも鈍くせぇ。」



真剣な、怒りを孕んだアイスブルー瞳の前、つまり僕の鼻先に。
景ちゃんはグシャグシャに丸まった辞表を翳した。

でも突き返されたって、ここで受け取る訳にはいかないのだと、僕は頭を振った。



「違ぇよ。中見てみろ、シュウ。」

「でも、」

「見ろ。」



仕方なく受け取って、僕は唖然とした。
封は切って、それをまたノリ付けしたような形跡があったのだ。

ハサミなんて持ってなかったからビリビリと乱雑に手で封筒を千切った。



「ない!!!」



書いたはずの辞表が抜かれていた。
狼狽した僕は汚い切り口を下にひっくり返して封筒を振った。



コロン―――っ



足元に、銀色の何かが転がった。
エレベーターの床マットのせいで、それは程なくしてそれは回転を止めた。



「シュウ、お前…」

「あ…」



呆れ顔の景ちゃんが跪いてそれを拾い上げるのを、僕はただぼんやりと見下ろしていた。



「世界中探してもこんな高価な指輪を落っことす奴なんざお前くらいなモンだろうな」



ククッと咽喉の奥で笑った景ちゃんは、
そのまま僕の左手を取って、拾い上げたそれを僕の薬指に通してキスを落とした。



「大切な幼馴染としてでもなく、有能な秘書としてでもなく、」



なんだろう。
どこかで聞いたような台詞だ。と思った。
この既視感。デジャヴ。



「そして、手軽な恋人としてでもなく、お前を永遠に傍に置いておきたい。」



けれど、加えられた言葉の意味は―――…





跡部景吾。
彼は日本屈指の大企業の社長である。

で、僕はというと。
その本屈指の大企業の社長の秘書であり、幼馴染であり、恋人であり、人生の伴侶である。

一体誰が日本の域を飛び越え、世界を股に掛ける程の
跡部コーポレーションのカリスマ社長が世界一不格好なプロポーズをしたと想像するだろうか?

けれど現実はそうなのだ。
ホテルのスイートでも、夜景の見える高級レストランでも、満点の星空の下でもなく。
フられた直後、汗だくで、職場のエレベーターで、指輪を落っことされて、実現しない婚約を申し出た。

シンデレラストーリーはカップラーメンや冷凍食品みたいに簡単ではないけれど、
意外な形で完結することもあるらしい。



「ていうか景ちゃん。手軽な恋人ってなんなの。」

「アーン?準備しておく程いつだって別れられるような恋人だったんだろ?」

「そういう事じゃないだろ!?」



これでも僕らは、シアワセです。



END...

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