氷帝×不二

□既知の事実を。
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(…っ…)



これだから満員電車は嫌なんだ、と不二は唇を噛んだ。
いや、好き好んで満員電車に乗ろうとする物好きなんてそうそういないだろうけど。

しかしまぁ、下劣な行為を繰り返すこの手の持ち主はきっとその物好きなのだ。



(やだ…)



そう思う頃には、様子見程度だった頃とは比べ物にならない程に執拗に。

痴漢だ。
間違いなくこれは、痴漢だ。



(なんだって男なんかに…)



確かに自分の外観が同世代の男の子程逞しくないという自覚はあるけれど。
それでもあんまりなのだ。
だって―――…



(制服なのに、なんで)



秋も中盤に差し掛かって、思わず下ろした黒単色の詰襟を纏う姿は、中身はともかく、どう見ても男。
この手の持ち主はわかってやっている?

一瞬痴女なのか?と考えはしたけれど、
やっぱり、神経を研ぎ澄ませれば澄ますほどに下半身を弄ろうと企む手の平はゴツかった。

嗚呼、今日のは信じられない位に物好きだ。



自分も大概物好きなのだけれど、と視界の隅にある男を捉えて不二は息を詰めた。



“やめてください”
と、たった一言が咽喉に詰まって出ない。いつも。

ただでさえ震えている指先が一層小刻みに揺れるのを感じて、足がすくむ。



(もう、いやだ…)



誰かを助けることはできるのに、いざ自分が被害者となればこの有様。
情けないとはこのことだ、と不二は固く目を閉じた。

現実逃避―――…

諦めかけたその瞬間、不快な感触が消え去って、



「ええ加減にしときぃや、おっさん」



自分と手の持ち主程度にしか聞こえないであろう小さな囁き声を聞くと共に、ぐいと手首を引かれた。
男は見越していたのか、折良く開いたドアを抜け、雑踏の中を更に行く。



「ちょお待っとき。」



ラッシュ時、人通りの多いベンチにやんわりと座らされて、
どんどん人混みに紛れて見えなくなってしまう背中を、混乱の冷めやらぬ頭でぼおっと見送った。

すっかり視界から消えてしまった背中を思って、不二は俯かずにはいられなかった。



(あんなトコ、見られるなんて…)



痴漢されていた時とはまた違った熱が、カッと全身を駆け巡るのを感じる。
ぎゅうっと握りこんだ拳には、爪が食い込んで周囲が白んだ。

悔しさなのか、恥ずかしさなのか、情けなさなのか―――…

とにかく、目頭から耳たぶから首筋から、服の下まで、なにもかもが熱く火照った。

ホームに滑り込んできた電車に、人の波が押し寄せていく。
慌ただしく、忙しなく進んでいく朝の光景に取り残されたままでじわりと汗が吹き上がる。

熱い。
けれども不二の思考は詰襟の釦を数個外すところへは行き着かない。

そんな熱放出を続ける不二の温度覚を、



「ひゃっ」



不意打ちに、ヒヤリとした何かが刺激した。



「大丈夫やった?」



缶ジュースを頬に押し付けてくる男は、眼鏡の奥の瞳をゆるりと歪めて隣に腰を降ろす。



「災難やったなぁ」



はたと意識を連れ戻されたホーム。
ラッシュ時の電車は間隔が狭いから、もう2本ぐらいは電車を見送っただろうか?
ホームにいる人間はもう随分と入れ替わっていた。



「その…ありがとう、ね。」

「ええって。」

「ごめん」

「謝ることあれへん。」



もう一言、『これも、ありがとう』と言ってりんごジュースのプルタブに指を掛けた。
隣で男が口を付けているのはコーヒーで、なんかオトナだな。と不二は思う。



「アイツ、ほんまは逃がしとぉなかった?」

「んーん、あっちの方がよかった。」

「せやろうな。」



分かっていたように男は頷く。
それだけのことが、弱った心にはバカバカしいほど染みた。



「嫌やない?」

「なにが?」

「ソレ」



くいと顎で指し示されたのが缶ジュースだと気が付いて、
手の平で包んだ缶のロゴに、不二はなんだかホッと、緊張が和らいだ気がした。

それでぷっつり気が緩んで、急に可笑しくなった。



「自分、なに笑うとんねん」

「いや…」



訝しげな視線に当てられるけれど、やっぱり。



「いや、なんかやっぱり可笑しくなっちゃって。」

「おん?」

「僕、りんごジュースが一番好きなんだよね」


普通、なにが好きかわからない人間に敢えてりんごジュースを買ってきたりするだろうか?

詰襟を着ずにはいられない10月の北風のホームで。
自販機には温かいココアも、無難なお茶も、部活動柄親しみ深いスポーツドリンクもあるというのに。

どうして冷たい、特異な、馴染みの薄いりんごジュースなのか。



「りんごジュース好きなんだ。」

「おん、知っとる。」



また、分かっていたように男は頷く。

周りに気付かれないように助けてくれたのも。
偶然だとしても一番好きなジュースを選んでくれたことも。
なんだか大袈裟な程に嬉しかった。

だからそっと、男の肩に頭を預けてみた。

というのは若干語弊があるけど。



「いつから?」

「いつやろな。」



拒否は、されなかった。
反して髪を撫でてくれる大きな手の平が、とてつもなく優しげに感じられて瞳を閉じた。

もう少し、この手に触れていて欲しいと感じた。



「嫌じゃない?」

「なんが?」

「コレ、」



不二は言葉で伝える代わりに、
さっきよりも首を傾けて男の肩へ、わずかに重みを加える。



「嫌ちゃうで。」

「うん。僕も嫌じゃない。」



りんごジュースがそっと耳打ちして教えてくれた、君の想い―――…



「嫌いじゃないよ。」

「嫌いやあらへんで。」

「好きだよ。」

「好きやで。」



男はそこで、不二の頭を撫でていた手を止める。
通じていたからこそ言える台詞と共に。



「せやけど、吊り橋効果なら御免やで。」



男が、弱ってるトコ掬い取る趣味はあらへんでな。と。
不二は一層頭を沈めて、その呟きを無視するように喋り出す。



「僕も物好きなんだよね。」

「たとえば?」

「わざわざ満員電車に乗っちゃうとことか、」

「おん、」

「あの痴漢のおじさんと一緒なとことか、」



それも分かってたんでしょ?
不二が音なく目だけでそう問えば、男からも音のない答え。



コーヒーとりんごジュースが混ざり合って、ほろ苦かった。生温かった―――…



秋のホームで、ふたりの時間だけが止まっていた。



「忍足のこと、ずっとスキだった。」

「おん。」



男―――…
忍足はやはり分かっていたように頷いた。



不二は、今回ばかりは痴漢を許してやろうと思った。



END...

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