□Light of love
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…それから、井上と別れた俺は胸にぽっかりと開いた穴を抱えたまま、がむしゃらに働いた。
…何も、考えたくなかった。
思い出したくなかった。
だから、毎日疲労困憊になるまで働いて、死んだ様に眠って。
それでも埋まらない心の穴を埋めようと、何となく煙草を吸い始めたりした。
煙草にむせかえって咳き込む苦しさも、仕事で上司に八つ当たりされ怒鳴られる屈辱も、俺にとってはアスピリンの代わり。
井上を無くした痛みを、束の間でもいいから麻痺させて欲しかった。
井上を傷付けた俺を、誰でもいいから罰して欲しかった。
「…井上…。」
レストランでの光景が、今でも頭を離れない。
俺が突然告げた別れの言葉に、言葉もなくただ表情だけが凍りついて。
大きく見開かれた瞳からこぼれ出す、大粒の涙。
「…くそ…。」
あの別れの瞬間も、幸せだった頃の優しくて温かい記憶も。
全てが胸の辺りを抉る様な痛みとなり、ふとした瞬間に俺に襲い掛かる。
ならいっそ、あの温もりも笑顔も、全て忘れてしまえばいい…そう思う心の片隅で、永遠に彼女を忘れたくないと願う自分もいて。
…何も、考えたくない。思い出したくないのに。
ああ、ほらまただ。
気付けば俺は、アイツの面影に捕らわれて…。
俺は左右に首を振り、自分の思考を無理やり止めようと、咥えていた煙草を深く吸い込む。
その時。
「…くろ…さ…き…くん…。」
俺の鼓膜を震わせた、懐かしい声。
どくり…と嫌な音を立てる俺の心臓。
驚愕し目を見開いた俺が、ゆっくりと顔を上げれば、そこには。
「…いの…う…え…。」
…井上が、立っていた。
足早に道を行き交う人並みの中、彼女と俺だけの時が止まって。
しばらく呆然と見つめ合ったあと、はっとした俺は咄嗟に手にしている煙草を後ろに隠していた。
…バカだと思った。
とっくに成人した俺が煙草を吸うことに、なんの後ろめたさもない筈なのに。
…そして、今更井上が俺の喫煙をどう思おうと、何の関係もないのに…。
「ひめちゃーん、どうしたのー?」
「空座行きの終電、行っちゃうよー!」
歩みを止め立ち尽くしている井上に気付き、数メートル先で井上を呼ぶ連れの声が、止まっていた俺達の時をふいに揺さぶる。
井上はその声に我に帰った様にびくりと身体を震わせ、そして。
少し俯いた後、もう一度俺を真っ直ぐに見つめると、ふわり…と今にも壊れてしまいそうな悲しい笑顔を俺に向けた。
その笑顔は、俺のいちばん深い場所に鋭く突き刺さって。
心臓を握り潰されたかの様な痛みと息苦しさに、じわり…と目頭に滲む涙。
ガラス細工の様に繊細で綺麗な井上の笑顔がぼやけ、歪む。
…けれど、偶然の再会はそれで終わり。
井上は、視線を逸らし僅かに俯くと、長い髪を翻らせ、彼女を待つ友人の元へと無言で走り去って行った…。
「おう!待たせたな、黒崎〜!」
…やがて、会計を済ませた仕事仲間がワイワイ盛り上がりながら店を出てきた。
「何か、会計のヤツがバイトの新人だったみたいでさ〜。手際悪いのなんのって…。」
そう言って笑う友人にとりあえず頷きながら、携帯用の吸い殻入れを取り出す。
「さ、もう一軒行こうぜ!確か黒崎も明日は仕事休みなんだろう?」
けれど、右から左に流れていく友人の声。
平静を装い、煙草を吸い殻入れにねじ込みながら、無意識に探るのは。
…アイツの、霊圧。
駅へ向かっているのだろう。
次第にこの場所から…そして俺から、あの日溜まりの様な霊圧が離れていく。
瞳を閉じれば俺の瞼の裏に映る、さっきの井上の泣き出しそうな笑顔。
…身体が、疼く。
…心が、叫ぶ。
「何なら、俺のマンションすぐそこだし、いっそつぶれるまで家飲みってのも…って、なぁ黒崎、聞いてるか?」
「………。」
「黒崎!」
「……悪ぃ、俺行くわ。」
「へ?行くって…ちょ、おい、黒崎!?」
訳が解らず、唖然とする仕事仲間をその場に残し。
…気がつけば、俺は駅に向かって走り出していた。
理屈じゃ、なかった。
俺から振ったくせに、とか。
別れてからもう半年も経ってるのに、とか。
…追いかけてどうしたい、とか。
そんなんじゃない。
それは、例えば空腹に耐えかねた時に、目の前に食事を出されたら。
例えば、喉がカラカラに渇いた時に、水の入ったコップを差し出されたら。
…誰だって、本能的に手を伸ばす。
多分、それと同じだ。
あと一目でいい。
井上の姿をあと一目見られれば、それだけでいいから。
…俺は、駅まで続くその道を、人の流れに逆らい無我夢中で走り続けた。
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