素晴らしきかな此の世界

□プロローグ
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それは、いつもと変わらぬ朝だった。
鬱陶しい日光。
耳障りな鳥の囀り。
鬱屈した気分のまま気怠い体を無理やり動かして、いつまでも好きになれそうにない堅苦しい服に身を包み、最後に襟元の気に入らないリボンを結んでおしまい。
姿見なんてここには無い。同居人に勧められはしたが自分に必要とはどうしても思えなかった。

ドアノブを捻って廊下に出れば、すぐに鼻腔をくすぐる香り。
この匂いは味噌汁だろうか? 豆腐とわかめがあればなお良い。
好物の気配を察知し澱んでいた心が晴れていく。
とはいえ未だ覚醒は果たされず。逸る気持ちを抑えて匂いの根源とは逆の方向、洗面所に向かう。

ペタペタと鳴くスリッパ越しに、廊下の冷気を感じ取る。
廊下に暖房───はさすがに無理か。
私は構わないし同居人もその辺り大雑把というか豪放磊落な気性ゆえ笑って許すだろう。
だが我が保護者様は一片の迷いもなく断じる。絶対。しかも無表情で。
脳裏を過ぎる男の顔に諦めを向けて、密かな一計は胸の内に閉まっておく。おそらくこの先引っ張り出してくる事はないだろう。

洗面所で顔を洗う。冷たい水が眠気を吹っ飛ばしてくれて、ようやく普通の思考へと戻れそうだ。
手にしたタオルで水気を拭い、私を一般人へと変える神秘的な道具を身につけ直すと、さすがに設置されている鏡が否応なしに私を映す。
紺色と言えばいいのだろうか、少し青っぽい黒髪は無造作に伸ばされて今や腰に至ろうとしている。
目は珍しい赤。父も母も日本人だが、その祖先を語ればどうやらアイルランドの血が流れているらしい。
その双眸を覆う(・・)ウェリントン。茶色いシンプルなそれを見て、私はいつも人知れず息を吐くのだ。

踵を返して、いざ向かうは魅惑漂う楽園(ダイニング)
音を立てずに居間兼食堂へと入れば、いっそう濃くなる朝ごはんの匂い。油断するとお腹が鳴ってしまいそう。


「おう、おはようさん。」


併設されたキッチンから気持ちのいい挨拶がかかった。
こちらに背を向け立つのは海の様に青い髪の男。項から伸びた一般人とは思えぬ色が揺れて、まるで尻尾みたいだと思う。


「おはよう、ランサー。」
「朝っぱらからアサシンの真似事か? 元気でいいねえ。」
「……そんなつもりはなかった。」
「だろうな。冗談だよ冗談。」


カラカラと笑って、ランサーは呑気に鼻歌を歌い出す。
知らない曲。曲調からして現代の歌だろう。いつの間にこれほど俗世に塗れたのか。


「座って待ってな、すぐ出してやるよ。」
「ん。」


明るい声が耳を通り抜ける。
暗澹たる空気をまったく感じぬこの声が、私は少し苦手だった。


「ほい、お待ちどうさ───っておいおい。」
「?」


両手両腕にお碗や平皿を乗せてやって来たランサーが、呆れたようにこちらを見ている。
何だろうか。その疑問は器を置いたランサーのため息で外に出るタイミングを逃した。


「髪くらい梳けって言ってんだろーが。いつになったらオレの助言を聞き入れてくれんのかねえ。」
「必要ない。」
「あるっての。ったく、せっかく綺麗な髪してんのに勿体ねえ。」


言いながら、ランサーは私の後ろに回って髪に指を滑らせる。
順調に進んでいた指がほつれに引っかかっては直し、また引っかかっては直しの繰り返し。

何が気に入ったのか気に入らないのか、ランサーは私が髪梳きを疎かにするとこうして手櫛を始める。
最初は呆れていても途中から楽しそうに没頭するので悪い気はしないのだが、こうしているとまるで動物の毛繕いの様だと気恥ずかしくはなる。
というか、それはつまり私が子でランサーが親ということでは?


「何だ、急に機嫌悪くなったな。実は触られんのが嫌ってか?」
「嫌……じゃない。」
「だよなぁ。もしそうならテメエで整えとくはずだ。……つーかちょっと待て、もしかしてお前自分ですんのがめんどくせえからってオレに任せちゃいねえよな?」
「そんな事は……」


ない。とは言いきれなかった。


「……まあいいけどな。お前の髪は嫌いじゃねえ。」


そう言って手の動きを再開させるランサー。
料理といい身だしなみチェックといい、女子力が高くなったというかお母さん力が強くなったというか。
これが本当に、妻を放り子を殺し、親友を手にかけた英雄なのだろうか。


「ランサー。」
「あん?」
「ごはん、冷める。」


目の前に置かれた一人分の朝食に視線を注ぎながら言えば、ランサーは「食べていいぜ。」と中断する気はない様子。
いや、この状態で食べるのは集中できないし、何より。


「嫌。一緒に食べる約束。」


最初に出会ったその日に、そんな小さな約束を交わしたではないか。


「……へいへい、そうでしたねっと。」


私の髪から手を離し、ランサーは厨房へと戻っていく。
帰ってきたその手にもう一人分の食事が揃っていて、

───ああ、今日も私は■■(ひとり)じゃない。

成長しない心で、そう思った。


「髪、後で整えてやるよ。」
「ん、よろしく。」
「……やっぱお前わざとだな?」
「……いただきます。」


誤魔化すな! そう騒ぐランサーと食卓を囲むのは今日で何日目だったろう。最初は殺伐としていたのが嘘みたいだ。
箸を器用に使って食事を取るランサーを盗み見て、自分も味噌汁に手を伸ばす。
うん、豆腐とわかめだ。

気づかれないよう、少しだけ頬を緩めた。


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