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□辞書(2)
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恋に落ちた瞬間というものを、はっきり覚えている人って、世の中にどれほどいるのだろう。




その時、試合は8回の裏、西浦の攻撃で、二死一塁を迎えていた。それまでに西浦は相手校に2点差をつけられ、勝てないこともないが、その可能性は決して高くはないという、いや高くないどころか、奇跡が起こらない限り確実に負ける流れになっていた。

そこで回ってくる、俺の打順。
塁に出ているのは、田島ただ一人。

もしここで俺が塁に出なければ、田島を進めることが出来なければ、次の回の打席はほぼ下位の奴らになってしまい、勝てる確率はグンと低くなるだろう。1点は取れても、2点はかなり難しい。勝つためには、今俺が、打つしかないのだ。

このピッチャーはそんなに強くない。速球でもなく、コントロールも特別良いわけでもないし、決め球だって当てれないこともない。実際ウチは試合中、数え切れないほど塁を埋めた。ただ、ホームに帰れない。守備がむちゃくちゃに上手いチームだった。内野ゴロはかなりの率でカットされ、外野の返球も速い。フライのミスもなく、前に飛ばした球が地面にぶつかる前にグローブの中に入っていることだって何回もあった。

勝つには、デカい当たりを打つしかない。

俺はバッターボックスに立ち、気合いを入れるため大きく吼えた。構えながら、ピッチャーの姿を捉える。肩で息を吐いているのが、この距離からでも分かる。空は墨色の雲に覆われ、日差しは届かないのだが、雨が降りそうなためか、かなり蒸し暑い。その気候の中ずっと投げ続けてきた奴は、最終回間近、相当疲れているのだろう。だが、こちらには好都合だ。ゆっくりと、そいつはモーションに入った。


打つ!













カシャンッ





背後のフェンスが撓んで、金属質な音を鳴らす。一球目はファール。打たなければならないという使命感からか、少し力んでしまっていたのかもしれない。大きく息を吐いて、バットの位置を正した。自然とシガポの瞑想を思い出し、体から余計な力が抜けていくのを感じる。
打てる、という直感。
モーションに入る奴の背景には、今にも飛び出して行きそうな田島が映っている。その姿は、何故だか俺に、絶対的な確信を持たせて。

振りかぶった。



振れ!















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