〜なくせに

□足りない
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足りないくせに




先程まで耳を支配していた雷や雨の音が遠退き、静寂が訪れる。

規則正しい律動に癒されて、意識がぼんやりと微睡む感覚を覚えた。


「お?…雨、止んだみたいだな」


そう、近くで発せられた言葉で意識が引き戻された。



やってしまった…!



恐怖に怯えて高鳴った鼓動は、一度温もりに包まれたことにより落ち着きを取り戻したが、


それも束の間。


自分の置かれた状況を認識すると同時に、私は温もりの中から飛び出した。


両手で引き締まった胸板を押し、自分の体を引き離す。


つい先程まで温もりを与えていた張本人・檜佐木は、少し驚いた顔をした。



「っ……!」



私が何も言えず、ただ檜佐木の顔を見つめると、ただ真っ直ぐに見つめ返される。


言い訳をするべきか、お礼を言うべきか、何てことをと罵るべきか、


真っ白になった頭では考えがまとまらない。



そして、どの言葉も今の状況にはそぐわない気がして、さらにどうしようかと悩まされる。


唯一できたのはうつむくことだけ。



「…もう」



静かに発せられた一言にびくりと肩を振るわせて見上げれば、



「もう、大丈夫みたいだな」



穏やかに微笑む檜佐木がいた。



その顔はとても優しくて、

不覚にも、


胸が高鳴った。



「しかし…」

「え?」

「上総、お前ちゃんと飯食ってるのか?」

「は?」

「痩せすぎだろ。飯、足りてねぇんじゃねぇのか?」

「はあっ?!」

「細いとは思ってたけどマジで痩せてるよな。あ、でも胸はでか…」


バシッ!


「うぉっ?!」


顔に熱が集まるのと同時に、手に抱えていた教本を檜佐木に投げつけていた。



「変態!あんたってやっぱ最悪だわ!」



投げた瞬間に素早く立ち上がって、ドアに手をかけ、そう言い放つと、勢いよく教室を飛び出した。



「お、おぃ、上総…!」



ピシャッと戸を締め切って、走りだした私。



顔がいやに熱くて、胸がドキドキと高鳴るのは、走っているからだ。



あんな変態に一瞬でもときめいただなんて


そんなことあるはずない。


恐怖で熱を奪われた躰が、熱を求めただけだ。



じゃなければ、


「もっと」だなんて


温もりを求めたりしない。




『足りないくせに』




心の中で、そう囁く声が聞こえた気がした。



わかってる。


悔しいけど、それは認める。


私は確かに、あいつの温もりを欲していた。


あの瞬間、


優しい微笑みに胸が高鳴った。


でも、それは気の迷いだったんだ。


あいつは私をからかっているんだ。


きっと、他の子にもあんな風に優しくするんだ。


だから、私がドキドキする必要ないんだ。


あいつはライバルなんだ。


だから、情けない姿なんか見せるべきじゃなかったんだ。


あいつは『敵』


だから、それ以外の


それ以上の関係なんて


望むべきじゃないんだ。



顔が熱いまま、

息を切らしたまま、

私は雨上がりの空の下を駆けた。


今の関係じゃ足りないくせに…


そう呟くもう1人の自分を振り切るように。



だから


「くくっ…(笑)」


灰色だった雲間から、赤い光が差し込んだ教室で


「からかいすぎたかな…」


檜佐木が優しく笑いながら


「……上総」



そう呟いていただなんて



「あんな無防備な姿、見せるのは俺だけにしてくれよ?」



私は知らなかった。





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